真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 真宗教団連合発行のカレンダーの法語は、ご門徒さまからよく「難しい」と言われます。確かにそうですが、それは法語を目にする人に大切な「課題」を与えようとする意図があるからでしょう。平成26年度の表紙を飾る足利浄圓師の言葉も、私たちに「南無阿弥陀仏」のみ名を称えることとが、どういうことなのかを改めて問い返して下さる言葉だと言えます。


  本当のことがわからないと
   本当でないものを 本当にする
            (安田理深師)

という言葉がありますが、私たちはともすると「知っているつもり」、「解っているつもり」で、そのことの持つ本当の意味を深く考えない場合があるようです。

冒頭の法語の英訳は、「Uttering the Name is actually listening to it」です。足利浄圓師は、「actually」(ほんとうのところ)を次のように語っておられます。


親鸞聖人の宗教は聞名の宗教であります。称名はみ名を聞くことであります。念仏とはみ名を聞くことであります。称名念仏とは口を動かして懸命になって努力している心に価値があるのではなく、謹んでみ名において打ちあけられてある如来の御心を聞くことであります。称えるのではなく如来の真実の、自分を呼び喚びさましてくださる御声を、み名において聞くだけであります。このほかに別に不思議も神秘もないのであります。
                 

『親鸞聖人に出遇った人びと』(同朋舎)


 浄圓師は、称名について、私たちがみ名を称えることであるとともに、もう一つそこに深い意義のあることを指摘されています。それは「称名は聞名」ということです。このことは、私たちに先だって阿弥陀仏の願いを聞きとめ、その願いを支えとしたよき人(諸仏)の讃嘆する声、その教えを聞くところに称名の本当の意味があるということです。
この意(こころ)を親鸞聖人も『一念多念文意』の終りにやさしく説明しておられます。


「称」は御(み)なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。

「名号を称すること十声・一声」とは、よき人が阿弥陀仏の本願を讃嘆する声でしょう。その十声が一声となり、「このこと一つ」に集約されて、聞く人に届くのです。では、「このこと一つ」とは何でしょうか。それを解くカギは、次の『高僧和讃』(善導讃)の一首ではないでしょうか。

釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり
(釈迦は慈しみの父、阿弥陀は悲しみの母、それぞれがたくみな手立てを用いて、
 私たちにこのうえもないまことを 育ててくださるのです)

 親鸞聖人は、「発起」という言葉に次のようなご左(さ)訓(くん)をほどこしてられます。


むかしよりありしことをおこすを発といふ。いまはじめておこすを起といふ

 この言葉を私なりに尋ねてみますと、「むかしよりありしこころ」とは、人としてこの世に生まれ、やり直しのきかない、どのような境遇に置かれても代わってくれる人もいない、そして必ず命の終わりがあり、その終わりがいつ訪れるか分からない身を抱えたその生を意義あるものとしてあらしめたいと願った心でありましょう。

 しかし、私たちは、世間の価値観やさまざまなことに振り回されて、そのことをいつの間にか忘れ見失っているのです。そのような私たちが仏縁に恵まれて、よき人の声を聞くたびに本来の願いに気づかされるのです。それを「いまはじめておこす」と聖人はおっしゃられました。

 人間に生まれてきたことの尊さ、そして生きて行くことの難しさ、それらをすべて含んだ上で、人生の終わりに当たって、「ありがたい人生であった」と言えることが、「このこと一つ」なのです。称名とは、み名を称えることです。それは、日々の生活の中で念仏しつつ、念仏に支えられて、縁あるたびに仏法を聞かしていただく身になることなのです。

 最後に、足利浄圓師のご法語のお心がよく表された『浄土和讃』の一首をご紹介したいと思います。


弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり
   (弥陀の名号を聞き、名を称えつつ、その願いを深く信ずる人は、
    常に弥陀の心を忘れることなく、そのご恩に感謝する身になるのです)

本山布教使 三木秀海
(岡山県 清楽寺) 

                            

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