真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 数年前のある日のこと、私は朝から自室の机に向かい頭を抱えていました。ある寺院の季刊誌に載せる法話のご依頼をいただき、原稿を考えていたのです。

 聖典を開き、諸先生方の本を読み、書いては消し書いては消し、気が付くと昼ごはんを食べるのも忘れ、何時間も机に向かっていました。その間、何度も、当時小学校に上がったばかりの息子が部屋にやってきては、声をかけてくれます。

「お母さん、何してるの?」
「お母さん、みかんどうぞ」
「お母さん、僕、絵を描いたよ。見て!」

 なかなか思うように原稿が書けずに焦っていた私は、はじめは返事をしていたものの、だんだんうわの空で、生返事。しまいには、

「お母さんは今大事なお勉強をしているから、あとにして」

と言う有り様です。
 息子を追い出し、日が暮れる頃になって、ようやく原稿が完成しました。
苦労した原稿ができあがり、ほっとして心軽い私の前で、夕食の席に着いた息子の顔はふくれっ面。

「どうしたの?」

と尋ねると、

「お母さんは今日、仏さまのお勉強をしていたの?」

と息子。

「そうだよ」

と答えると、ふーんと言ったまま口数少なく食事を済ませると、

「お勉強をしているお母さんなんて、大嫌い!今日は僕のことを一度もみてくれなかったよ」

と言って、二階へ駆け上がっていきました。
夕食の片づけを済ませて自室に戻ると、机の上には「人の心に寄り添う」というテーマで書き上げた原稿の横に、息子の描いた絵と鮮やかなオレンジ色のみかんがひとつ、寂しそうに置かれていました。

 聖典やご法話の中で、胸を打つ言葉やハッとさせられる教えと出遇うことがあります。しかし、いい言葉だなあ、なるほどその通りだなあ、と感じ入りながら、その次には、

「よし、これを誰かに伝えよう」
「この言葉はあの人に聞かせたい」

と思う私がいます。その言葉を我が身のこととして聞けない私。頭で理解しても、身に受け止められない私。

 蓮如上人のお書きになった「御一代記聞書」というお書物の中に、「その籠(かご)を水につけよ」という言葉があります。
ある人が、

「私の心は籠に水を入れるようなものです。どれだけ法(仏法・み教え)を聞いても、籠に水をすくうように少しもありがたい心が残りません」

 と言われ、それに対して蓮如上人は、


「その籠を水につけなさい。我が身が南無阿弥陀仏の功徳の大宝海の水の中につかるのです」

とお答えになります。

 この蓮如上人がおっしゃった「その籠を水につけよ」という言葉の意味は、よくご法座へ参ったり、仏法を学んだり、行動や環境を常に仏法と関係するところに身を置きなさい、ということではないように思います。環境に身を置くことだけであれば、それはまるで流れる水の下に籠を置いているようなものです。流れてはいても抜けていく。

 だから、抜けていく私には、息子の優しさに気づくことができませんでした。籠には水を入れておくことができないように、私の心で阿弥陀仏の教えのまことに出遇っていくことは難しいことです。だからこそ、蓮如上人は「その籠を水につけよ」とおっしゃったのです。言い換えれば「つねにお念仏をいただく身になれ」ということ。

 「籠を水につける」とは、南無阿弥陀仏の大きな大きな功徳の海に、抱かれその身をまかせ、ゆらり浮かべてゆくことなのではないでしょうか。
 籠は籠のままに、籠が水をすくうでなく、その籠のすみずみまで阿弥陀仏のお慈悲がしっかりと籠を抱き込んで下さるのです。

 法を学ぶことは、決して私の心がありがたく尊くなることではなく、この私がどこまでも籠でありながら、籠のままにすくわれていくことを知らされることでありました。
この季節になると、息子のくれたみかんの鮮やかなオレンジ色を思い出すのです。


本山布教使 川田慈恵
(香川県 妙楽寺) 

                            

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