真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 縁起とは仏教の中心思想であり、精神的な働きも含め一切のものは、種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えをあらわします。

 あらゆるものは、原因と条件が整うと生まれ、存在し、原因と条件が無くなると去っていくのです。今月の法語のことばを味わってみると、『仏説無量寿経』のことばが私には浮かんできました。

「人、世間(せけん)愛欲(あいよく)の中にありて、独(ひと)り生まれ独(ひと)り死(し)し、独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)る」

 人は世間の情の中で日々生活していますが、この世に生まれてくるときも、この世から去っていくときも、独りでその苦難にむきあっていかなくてはなりません。そして、その苦難は、だれに代わってもらうこともできません。また“縁がつきて独り去っていく”のが何時になるのか誰にもわかりません。

 今月の法語カレンダーのことば、『仏説無量寿経』のことば、一見どちらも物悲しく、寂しい印象を受けます。けれど『歎異抄』のことばをあわせて味わうと別の側面が浮かんでくるように思います。

 『歎異抄』第九条には

「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり」

と唯円坊を通して親鸞聖人のことばを味わうことが出来ます。いくら名残惜しいと思っても、この世との縁が尽きるならば、自分ではどうすることもできずに命が終わっていくのです。そのときにこそ、かの浄土に参らせていただくのです。

 いそいで浄土に往生したいという心のないものを、如来は大悲の心でまるごと包んで下さるのです。この親鸞聖人のおことばは、温かく有り難いことであります。この世で命が終わった私を迎えて下さる存在をしめしているからです。この迎えて下さる存在を感じることが出来ると、人は心に安らぎを見出すことができます。

 私には小学生の娘が3人います。毎日午後4時ごろになると、学校から帰る足音が北側の門から聞こえてきます。ある日はランドセルをカタカタ鳴らし、走って帰ってきます。そんな日は「ただいま」の声が弾んでいます。「おかえり」という母親の声も弾んでいます。「図工の時間、絵が上手やとほめられてん」と元気いっぱいです。

 また足取りが重い日もあります。そんな日は「ただいま」の声が小さくこもっています。「おかえり、どうしたん」と母親が聞くと「今日学校の休み時間に、こけて怪我してん」と膝に絆創膏をはった痛々しい姿で帰ってきます。

「ただいま」の声の調子と足音で、大体学校で気持ちよく一日過ごせたか、しんどい一日だったかが、わかります。子どもたちにとって、学校は学びの場です。勉強したり、友達と遊んだり、美味しい給食を食べたり等々いろいろな経験をしてきます。そこには“楽しい”“うれしい”だけでなく、“寂しい”“悲しい”“苦しい”や、時には腹の立つこともあるでしょう。

 友達とけんかした、先生に怒られた・・・そんな時の朝は「もう学校行きたくない!!」と布団から出てきません。そんな時に母親は「大丈夫、大丈夫。お母さんが味方や。また学校で嫌なことがあったら、お母さんに言いや。お母さんはいつも見てるよ」と子供を包み込みます。そうして学校に行って帰ってくるときには「○○ちゃんと仲直りしてん!」「先生と遊んだん!」と満面の笑顔で帰ってきます。
 良いことも悪いことも両方ある学校に、それでも毎日行けるのは、帰る家があり嬉しいこと悲しいことを受け止めてくれる存在があるからではないでしょうか。

 法語カレンダーと『仏説無量寿経』のことばも、「縁において去っていく」「独り生まれ独り死んでいく」その先が何もないのであれば、寂しく空虚です。しかし、その先に迎えて下さる存在があるならば、寂しいことではありますが空虚ではありません。私を丸ごと受けとめてくれる存在、それは如来さまにほかなりません。

“ただいま” “おかえり” “なもあみだぶつ”


本山布教使 神舘広昭
(大阪府 光教寺) 

                            

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