真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


本当の相になる これが 仏の教えの目的である
                  暁烏 敏

 幕末から昭和の始めにかけて、香川県に山地願船(1859~1941)という方がおられました。この願船さんは、同じ県内の庄松同行に並ぶ程の妙好人でありました。ある時、願船さん「眼が悪くて困っております。診て頂けませんか」と親しい眼科医を訪ねました。ところが、いろいろと検査をしても、一向に悪いようにはないのです。「診たところ、どこも悪くないようですが」と医者が言うと、願船さん「先生、私の眼は人の悪いとことばかり見えて困るのです」と。

 なる程、私たち人間の眼というのは、他人の様子はよく見えるものです。あの人、白髪が増えたなあ、あの人は腰が曲がって年寄せたなあ…。中には、あの人はいつ会っても腹の黒い人じゃなあと、人さんの腹の色まで見えるのです。

 それでは、そのよく見える眼でもって、今度は自分の顔を見ようとすると、どうでしょう。頑張っても、せいぜい鼻の頭が関の山。鼻が低いとそれさえ難しい。一番近くにありながら見ることできないのが、自分の顔なのでした。ですから蓮如上人は、

  人のわろきことはよくよくみゆるなり、わが身のわろきことはおぼえざるものなり」
  『蓮如上人御一代記聞書』

と仰せです。
 相田みつをさんに「一番わかっているようで、一番わからぬこの自分」という言葉があります。自らの眼で、自分の顔を見ることが難しいように、一番身近な自分自身のことを知るというのが、実は一番難しいというのです。

 自分で自分の顔を見る為に、使う道具が鏡です。善導大師はお書物に


  経教はこれを喩うるに鏡の如し。 『観経疏』序分義

と記されました。お経の説く教えは鏡のようなものだ、というのです。教えに遇い、教えを聞くのは、その教えという鏡に映った自分の内なる相を見せてもらう、知らせてもらうことだったのです。
 教えを聞くとは、極楽の話を聞くことではありませんでした。いつもはわからない、気づくことがない、知ることができない、ありのままの本当の私の相を知らされる、教えられることなのです。ですから、仏教はどこまでも「身の事実」に立つものと教えて頂きました。


  わが心、うつす鏡のありとせば、さぞや姿の、みにくかるらむ

という道歌があります。一体、私の相は教えの鏡にどう映るのでしょうか。
 いつもご法話の中で「煩悩具足」とも「罪悪深重」とも聞いてきました。「わが身はわろきいたづらもの」とも聞いています。これは全て、教えの鏡に映った、他の誰でもないこの私の相、凡夫としての「身の事実」を教えてくれる言葉でありました。

 事実ですから、嘘でも作り話でもありません。本当の私の相です。ところが、その事実にうなずくことができない、うなずこうともしない、しぶとい私がここにいるのです。
 他人の悪いところばかりが見えてしまうという身の事実に驚き、「お恥ずかしい」と頭が下がった人が、願船さんだったのでありましょう。我身の事実に気がつけば、自ずと頭が下がります。生きる方向がそれまでとは変わっていくのです。


  信仰を得るということは、安心をもたらすことではなく、逆に今まで見えなかった人間の実態が見えてくることを意味する。今まで自覚されなかった自己の正体がはっきり自覚されるということだ。 
亀井勝一郎



合 掌



本山布教使 赤松円心
(香川県 正行寺) 

                            

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