真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 先日“たまには父親の私がいっちょ腕を振るおう!”と娘のお弁当を作ってみました。娘がおいしいと喜んで食べる姿を想像しながら、色合いや栄養バランスを考えて作ったお弁当。
 私もお昼に食べてみると、それは昔私が学生のころ母が作ってくれたお弁当の味と同じ。懐かしさとありがたさで涙がこぼれそうになりました。当時は別にありがたいとも思わず、別にお弁当なんか作ってくれなくても学食で済ませるのに・・・とすら思っていたのに。
 「親の心子知らず」という言葉の通りです。

 10代、20代のころの自分をふりかえってみると、親や先生が自分のためを思ってしてくれる行動をありがたいと思うどころか、うっとうしいとすら思っていました。
 「そんなことやってくれなくても自分でできるよ!ほっといてくれ!」と。それは自立のために必要な感情ではあるのでしょうが、今思えばなんともったいないことかと思います。
 心の底ではもったいないことしていたなぁと思う今も、実際の行動は変わっていないかもしれません。今さら照れくさくて「ありがとう」ともなかなか言えないのが現実です。

 仏様は「み親」とか「親様」と親によく喩えられます。仏様の慈悲の心と親の愛情、まったく同じとは言えませんが似ているところがあります。
 親は自分の子どもが人間として正しく立派に成長できるように時には叱咤激励し、子どもが逆境にある時には子どもにその姿をみせなくとも一緒に悩んでいます。
 しかし、子どもはなかなかそれに気づけずに反抗的な態度をとることもあります。人間ですから親も反抗的な態度をとるわが子に腹をたてることもありますが、それでも子どもを見捨てることはしません。

 これは仏さまの慈悲も同じです。慈悲の「慈」とは慈しみの心。幸福を願って「がんばれ!」という励ましの心です。「悲」とは憐みの心。痛みをともにしてくれる心です。
 私たちの身の回りでおこるできごとに対して、私たちはなかなか「仏さまありがとう」とは思えません。都合のいいことは自分の手柄、都合の悪いことは「神も仏もない!」とさえ思っていまします。これもまた、なんとももったいないことです。

 さて今月の言葉は、僧侶でもあり小学校教諭として活躍された東井義雄先生の言葉です。東井先生は兵庫県のお寺に生まれ、教育者としても「いのちの教育」を大切にされた方です。そのなかで「目に見えないもの」の大切さを子どもたちに伝えられました。
 たとえば立派に大きく育った木、美しく咲く花、その陰には目には見えませんが、しっかりとした根があります。
 私たち人間にとって根とはなんでしょう?根を英語で言うと「roots(ルーツ)」。私のルーツ、それはご先祖さまからつながれてきた命です。そしてこれまで出会ってきた人々やできごと、それに関わる人々、今のわたしの陰にはそういう「おかげさまの世界」があります。そのおかげさまに今日の私をいただいています。
 おかげさまの中に生かされている自分の本当のすがたに気づかされた時、ありがたいという気持ちと同時に、申し訳なかったと傲慢な自分を恥じる気持ちが湧いてくるはずです。
 実は今月の言葉の続きは「すみません 南無阿弥陀仏」なのです。私たちは自分で人生を切り開き、自分のがんばりだけで生きているような錯覚に陥ってしまいます。10代の子どもたちが親のありがたに気づかずに、もう子どもじゃないんだからなんでも自分でできると錯覚している時でも、親は愛情を注ぎ続けてくれています。
 私たちが自分で人生を切り開いて、自分で我が行く道を作り上げていると錯覚している時でさえ、おかげさまの世界はこの私からはなれることはありません。
 いくらそんなものいらないと思っていても決して離れることはありません。せめてそれに気づかされた時ぐらいは、「ありがとう、すみません」と手を合わすべきではないでしょうか?


合 掌



本山布教使 中原大道
(香川県 大乗寺)

                            

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