真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 言葉はとても難しいものです。時代背景、地域環境、背負っている体験等・・・また、語る者、聞く者によっても言葉の意味が違ってきます。特に専門用語は、一般の人(業界外の人)にとっては難解です。
 人間には、「三つ子の魂百まで」の諺通り、最初に学んだことに執着する習性があって、語り手の思いを正しく理解するのが難しくなる傾向にあります。

 さて、今月の言葉は

      お念仏は 讃嘆であり 懺悔である
                      金子大榮

です。この言葉は、金子先生がご自分で考え出した言葉かといえば、そうでもなさそうなのです。

「稱佛六字」といふは南無阿弥陀佛の六字をとなふるとなり「即嘆佛」といふはすなはち南無阿弥陀佛を稱ふるはほめたてまつる語になるとなり「即懺悔」といふは南無阿弥陀佛を稱ふるはすなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。

という親鸞さまの著作である『尊号真像銘文』を受けた言葉のようです。

 ところで、貴方は「讃嘆」「懺悔」という言葉を、日常生活の中で眼にすることがありますか?ちなみに『広辞苑』では、次のように解説しています。

 讃嘆(さんだん)・・・仏・菩薩の徳をほめたたえること。
 懺悔(さんげ)・・・・過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと。
 懺悔(ざんげ)・・・・キリスト教で罪悪を自覚し、これを告白して悔い改めること。

 私は冒頭で、「背負っている体験等によって、言葉の意味が違って聞こえてくる。」と述べました。しかし、言葉の意味よりも、親鸞さまの体験を、金子先生がご自身の上でどのように受け止めてこの言葉を発せられたのか、このことの方がもっと大事だと思うのです。

 すでに30年も前のことになりますが、作家の高史明先生をお迎えして仏教講演会を開催したことがあります。高史明先生は43歳の時、愛し子(12歳で自死)を亡くしたことが契機となって、『歎異抄』と親鸞さまのみ教えに深く帰依されたのです。
 高松で講演をお願いした当時は、ご子息の真史君との死別の悲しみから、まだ十分に立ち直っておられない頃だったのでしょう。苦悩を背負った先生の表情が、先生の口から発せられた言葉とともに、今なお鮮やかに私の脳裏に残っています。その時先生は「『歎異抄』は言葉(理論)で読めばこれほど理解しにくい本はない。しかし、慙愧の心で読めばこれほど有難く解かり易い本はない。」とおっしゃいました。

 この言葉に出会って、『教行信証』信巻の、

なんじが所愛は、すなはちこれなんじが有縁之の行なり…(中略)…もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき苦労を用ゐるに、多く益をうればなりと。

 仏教を学ぶに、解学(理論)と行学(実践)があり、実践を学ぶとは有縁の法(自らの苦悩)を手掛かりに仏教の言葉を聞くことです。

という、親鸞さまのお言葉に深く肯くことができました。
 「今月の言葉」である「お念仏は 讃嘆であり 懺悔である」は、人生の痛み、悲しみを縁として聞こえてくるのが、お念仏の言葉ですよと教えて下さっているのです。



合 掌



本山布教使 佐々木安徳
(香川県 専光寺)

                            

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