真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


呼びたくも呼ぶことならぬガラス戸に
       息吹きかけて母とかくなり

 私は教誨師をさせていただいています。時々奈良少年刑務所に教誨にまいります。その控え室の柱に短冊に書かれているのが上記の和歌です。この歌に次の漢詩が添えられています。

非行少年囹圄(獄舎)に泣く
 無限の悔恨思い窮まらんと欲す
噫吾過てり吾過てり
   終夜眠られず独房の中

 頭を上げては母を思い枕に伏しても母
         慈顔仏のごとく我が瞳に浮かぶ
 海嶽の恩愛今始めて識る
         一輪の寒月獄窓を照らす (原文は漢文)

 この詩の作者は日本の漢詩(吟詩)で有名な松口月城氏です。非行少年が獄中で作った三つの歌に感動し、少年の心を察して「母」と題して漢詩を作られたのです。
 少年の三首の歌とは次のものです。

ふるさとの 栗もくるみもうれたれば おまえを思うと母の文くる

呼びたくも呼ぶことならぬガラス戸に 息吹きかけて母とかくなり

かくまでも なげきたまいぬ吾ゆえに 日毎ふえゆく母の白髪


 母の愛がこんなにも深いものであったかと獄舎で知り、涙と悔恨の念の中で、母の名を呼ぶ少年のせつない姿、それは「何につけてもおまえを思う」と慈愛あふれる親心に接したが故に、呼ばずにはおれなかったのでありましょう。心の中で「かあさん」と呼んだのは紛れもなく少年ですが、呼ばしめたもの、それは息子を思い、寄り添い続けている母の呼び声でありましょう。

 さて、今月の法語は広瀬杲先生の『宿業と大悲』(法蔵館)にあることばです。「無倦」とは、「倦むことがない、あきない、つかれない、だれない」ということです。私達衆生にかけられた大悲は倦むことがない、永久に休みなく働き続けているというのです。

 『正信偈』の「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲倦きことなくして、常に我を照らしたまふといへり)が思い起こされます。私は『正信偈』を拝読させていただくとき、この段になるといつも胸にあたたかいものを感じます。

 大悲とは、生死の迷いと我執に生きる罪濁の我ら群萌に寄り添い、その姿を悲しみ目覚めさせようとする限りない如来の営みであります。自分で自分の根本問題をどうすることも出来ない者、そこに大悲の本願がはたらくのです。その大悲は休むことなく倦むことがない。何故なら、苦悩の衆生のある限り無倦なのです。

 私たち人間にも愛はありましょう。しかし友情でも恋愛でも無倦とは言えません。「これだけしたのに、これだけ思っているのに」と執着がある限り清浄・無量ということはできません。私たちは自分にとって都合の良いものを愛し、不都合・反対するものを憎しとする「愛憎違順」を常としています。根源的に無明煩悩である衆生の悲しい姿であります。

 でも親が子供を想う愛は少し違うようです。子に背かれた場合、一時的には様々な感情がはたらいても、憎しみ続けることは少ないようです。やがて悲しみとなって子の心に寄り添う、だから「親の慈悲」とも表現されるのでしょう。親のプライド、子に対する勝手な要求など、時と状況によっては親の愛も様々に変容しますが、それらの周辺感情を取り払って残る親としての純粋感情は、他の愛情とは質的に違うものでありましょう。それはたとえ徒労に終わろうとも悔いない願いと行いです。それが悲母の心です。

 刑務所で、出所する前に青年たちと面談する時があります。「此処での生活で気づいたこと」を聞いてみると、7、8割が親への感謝です。はじめは「お前みたいな者は」と厳しい眼差しであった母親が、面会日に足繁く通う。金網越しに親子が出遇った証でしょうか。
刑務所が編集した『奈良一短い感謝の手紙』の中に、お母さんへと題して

 おかんすまん こんな息子で。
  どんな思いで電車に乗って息子に会いに来るのか。
   感謝感謝 有り難うおかん。(23歳)


というのがありました。倦くことない母の慈愛が目に見えるようです。

 非行少年が獄舎のガラスに息吹きかけて母と書き母を呼んだのは、手紙を通して息子の心に寄り添い続ける倦くことなき母の願心からでありましょう。その願心は少年が気づいたときからではなく、気づく前から呼び続けていた悲願です。彼をして目覚めさせ悔恨のうちに、真に生きようと転じさせた、その力こそ母の願いです。真の願いは力となります。まさに願力であります。


  子の罪を 親こそ憎め 憎めども
     捨てぬは親の 慈悲(なさけ)なりけり(利井鮮妙師)

 この親心に出遇って人は還る処を得るのでありましょう。

 如来の本願力は、真実に背き自分の思いにこだわって生きようとする私にはたらきかけるのであります。裁いたり処罰をするのではない、ただ衆生のいたみに寄り添い大いに悲しみ願い続けてくださる。「衆生にかけられた大悲は 無倦である」。倦くこと無き大悲願心に出遇ってこそ生きる方向と依り処が明らかになるのです。

合 掌



本山布教使 脇屋好照
(奈良県 光専寺)

                            

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