真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 『法語カレンダー』には、文字通り各月に諸先達の味わい深い法語が掲載されています。そして法語の上部には、今年は画家・羽尻利門さんの、心なごませるノスタルジックな絵の数々が添えられています。
 12月は「おひとついかが?」の題で、おばあさんの差し出すお手玉に、幼児が懸命に手をのばして、それを受け取ろうとする様子が描かれています。孫と遊ぶ日常のひとこまですが、静止画の奥になにか遠い歴史と、豊かないのちのつながりを想起させてくれるようです。

 核家族化の進んだ今日では、祖父母と孫たちが毎日一緒に過ごすということは少なくなりました。『天声人語』にあった一文。「孫のかわいさは絶妙の距離感によるという。血が引き寄せる親しみと、育てる責任のない気楽さの二重奏である」(「朝日新聞」2012月12日18日付)は的を射て苦笑いを誘いますが、やはり自分の幼い孫たちを見ていると、いのちの引き継ぎ、引き受けてくれていることに、内心感謝の思いは否めません。

 随分前にご門徒のおばあさんに聞かせていただいた言葉ですが、「私の子供の頃、寝る時に枕元で祖母が子守歌がわりに口にしていたのは、“もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて…(略)”のお領解文でした」と。『領解文』は素読すれば1分もかからない短いものですが、そのおばあさんは身にしみ込んだこの法語を、何度もくり返し子守歌がわりにお孫さんに語り聞かせたのでしょう。長じて懐古する時に、そうしたご先祖のこころが、味わい深く思い出されるご様子のお話しでした。法は法をよろこび、法に生きる人を通して、他の人々に伝えられるものです。形あるものを通して形なき大切なものに出遇わさせていただくより外にありません。

 香樹院徳竜(1772~1858)という学僧の言葉に次のようなものがあります。

 称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名をとなえることができようか。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏の如来さまは、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのみ心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるのではないか。
                        (『妙好人のことば』 梯實圓著)


 私にいま仏のみ名を称えさせて、如来さまの真実の願心を聞かしめておられるのは、必ずたすける阿弥陀仏のおわしますことを信ぜしめる御こころであると示しておられます。如来さまの御こころは、如来さまをあふれ出て、一心一向に私の上に届いて下さっているのです。阿弥陀仏の方から私たちの上に届いて下さるはたらきが、いま私の念仏となって下さっているのです。

 そのお念仏は、今月の坂東性純師の法語のごとく、「永遠の拠り所」となって下さり、その永遠の御こころに目覚める歩みが、「南無阿弥陀仏の生活」ということになるでしょう。 坂東師は著書『浄土三部経の真実』の中で、

 人生は楽しみ、喜びばかりではなく、失望や苦悩がじつに多いものです。喜びに満たされ、得意の絶頂のときは、うかうかと過ぎてしまいますが、真剣に人生の意義を深く考えるのは、むしろ不幸や災難などの逆境に出会ったとき、失意のどん底のときではないでしょうか。そしてそのつど教えに目覚め、あらためて生きる道を示されて再び立ち直る。そのくりかえしの人生のように思われます。そしてだんだん永遠の世界があるのだという実在感を体得してゆくのです。


と述べておられます。
 迷妄の中に生きる私たちに、仏の真実にいのちの根拠を据える生き方が求められます。
 

合 掌



本山布教使 村上堯信
(鹿児島県 信楽寺)

                            

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