真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 「三人寄れば文殊の知恵」という諺があります。この知恵は今まで思い付かなかったようなすばらしい考えが出てきた、という風に使われます。あるいは「知恵を絞る」とか「知恵比べ」と言いますね。しかし、この知恵は、この世の中を渡っていく世間の話です。

 また「あの人は慈悲深い人だ」という場合、思いやりがあって、他人の苦しみや困窮を手助けする優しい人というふうに使います。しかし、助けられる人の苦悩が根源から解放される訳ではありません。所詮この世の一時凌ぎの救いなのです。
 智慧や慈悲は、仏教では本来、真実を見抜き苦悩を根源から解放することを表す言葉です。

 「信じる心の出でくるは智慧のおこるとしるべし」
              (『正像末和讃』「信心の智慧」左訓)


と親鸞聖人は教えて下さいました。
 信心は智慧だとおっしゃるのです。アミダの本願を信ずるところに己自身が見えてくる。小さな殻に閉じこもり、凝り固まっていたむき出しのわが身が見えてくる。
 どうして見えるようになるかというと、仏の光に照らされたからなのです。すると、そこには思いもよらぬ広大な世界が拡がっていることがわかる。それが殻を打ち破ったというか、打ち破られたということでしょう。そういう視座が開かれることが智慧をいただいた、というのです。

 もうかなり以前のことです。私が高校教師として勤めていたとき、高二の男子生徒が、学校近くにある幼稚園の屋上で自死するという事件が起こりました。
 その少年の父親は、突然の悲報に我を忘れて、自分も死んでしまおうと、ナイフを持って山の中を駆け巡ったといいます。でも、自分が死んだら誰が息子を供養してやることが出来るのか、と思い直して仏壇の前で額(ぬか)ずいたのでした。

 その生徒の三回忌法要のとき、私は作家の高史明さんにお願いして全校生徒に「いのち」について講演をしてもらいました。高さんも12歳のひとり息子が自死して悩み苦しみ、その悲しみの中で親鸞聖人の教えに出遇って救われた方でした。法要の後で高先生は、お父さんにこのように語りかけました。

 その時、恐らくあなたは悲しいという思いすらなかったでしょう。只、崩れ込んだのです。あなたの背骨が折れて崩れ落ちたのです。背骨が折れたとは何か。南無したのです。あなたが南無したとき、折れた背骨の代わりに阿弥陀さんがあなたを支えたのです。今、あなたが生きておるのは、南無阿弥陀仏が背骨になって下さっているのです。


 それを聞いたお父さんは、「全くその通りです。私のいのちの芯に南無阿弥陀仏さまがいて下さる」と深く頷いたのでした。
 勿論、子供の死はどうしようもなく悲しいことです。その悲しみは死ぬまで消えることはないでしょう。
 しかし、「今はその悲しみが頂戴できます。悲しみの涙の中に念仏を称えている仏さまがいらっしゃるのですから」と高先生はしみじみと話を続けられました。その仏の声を聞くことは、私が念仏申すことなのです。
 こうしてお父さんは、悲しみを通して真実のいのちをいただき、まことのいのちに出遇われたのです。このまことのいのちに出遇われたということが、仏さまから賜った智慧ということなのでしょう。念仏を喜ぶ人は、身心柔軟のご利益をいただき、他者の悲しみに寄り添うことができるのです。


合 掌



本山布教使 渡辺木龍
(香川県 西坊)

                            

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