真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 私たちは、出会うといえば誰か他の人と、と考えるのが普通です。私自身に出会わねばならないとはどういうことでしょうか。
廣瀬杲師は、

 生きている間は、知っているつもりで生きている、そのつもりこそ、実は一番大事な知るべきことを知らないで終わる人間として、自己自身を放棄していくということになる
 仏陀というのは…(中略)…現実の自己に目覚めた人…その現実の自己に目覚めた人の言葉によらなければ、我々は現実の自分に遇うことはできない


とおっしゃられます。

 これは、親鸞聖人が『正信偈』に「五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」と説き、その言を「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」とお示しになっておられることでしょう。

 向坊弘道さんという方がおられました。若くして交通事故に遭い全身麻痺になります。昨日までは元気だったのに今は何一つ思うようにできなくなり、文句ばかりを言う毎日を送るようになります。こういう私の状況では、「果たして生きていくということは、命というのは何だろうか、自分はどこから来てどこへ行くのだろうか」という問いが湧き起ってきたそうです。

 そんなある日、親鸞聖人の言葉に出会われます。お浄土とは阿弥陀仏の世界であり、いのちの還るところ。お浄土に還って、すぐまたそこから戻って来て有縁の人たちを導くはたらきをする。どんないのちでも、私のような落ちこぼれでも救うという願いがかけられている、と知って驚かれます。
 人前に出るのが恥ずかしかったのが次第に平気になり、周りの人が、あんた生きとってよかったねと喜んでくれて、「ああ、こういう世の中に私は生かされておったんだなあ」と有難く思われたそうです。
 ある冬の朝、庭は一面の銀世界。雪が解けた昼間は土があらわになって、これが石、これが木と庭にあるすべてが見えますが、雪が積もってしまうとどこに何があるやら分からなくなってしまう。
「お浄土とはこういうものではあるまいか。阿弥陀仏にとってみれば、そこに生かしてもらったものはすべてが同じなんだ」。この娑婆では元気な人、体の不自由な人、大学を出た人、学校に行っていない人というような差がありますが、お浄土ではこういうことなのかと。その一人ひとりに阿弥陀仏より願いがかけられていたのだと感動されます。

 この本願の世界に目覚めた時、「こんな大馬鹿者を、両親はよくぞ見捨てないで面倒を見てくれたなあ」と今までの自分の姿が恥ずかしくて、泣けて泣けてしようがなかったそうです。

廣瀬杲師は、

 人間の自我心というか、理知の眼というか、そうしたものでは決して知ることのできないものが二つあります。
 その一つは、今、ここに、私として生きているというわが身の真実であります。
 そして、今一つは、このわたし自身をあらしめている無限のはたらきであります

とおっしゃられます。

 厳しいことであっても誰も代わることのできないこの身の事実を受け止める。そして煩悩ばかりの私と知らされ慚愧なき身を省みて、同時に、その私が本願の世界の中で、すべてのいのちとつながり、支えられて生きているという真実に歓喜する。これが私自身に出会って生きるということなのでしょう。


合 掌



本山布教使 香川正修
(香川県 一心寺)

                            

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