真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 今月の法語は、昭和33年から36年まで、大谷大学の第16代学長を勤められた正親含英先生が、学長退任後に京都高倉会館で講演された時のお言葉です。
 この法語の味わいを出来るだけ正確に共有できるように、前後のお話の内容をご紹介したいと思います。

 正親先生は講演の中で、あるお念仏者から次の様な話を聞かされたことを披瀝しておられます。
 それは、


 私の様な者が申しまする念仏は、丁度ため息をする様な念仏なのです。この世の生活に疲れてきて、ため息の様な念仏しか称えられません。
 しかしながら不思議なことに、ため息の様な念仏でありましても、ため息が念仏申せば、そのため息の中に、落ち着いてゆくことが出来ます。
 ところが、ため息がため息だけで終わって、念仏とならない時には、ため息はニヒルになり、仕方がないと言った、ただの投げやりになってしまう。
 ところが、ため息はため息ながらも、念仏のため息をさせてもらう時には、ため息の中に、どうにもならぬ中に、落ち着いてゆくことができます。


 このお念仏者の話を受け止められた正親先生は次のように語られています。

 私は、有難い言葉を聞かせて頂いたと、今も忘れ得ないのであります。だからして、「我々も念仏しておる」という我が身が聞えてくるんじゃなく、念仏しながらも聞えてくるものは、煩悩の嵐が聞えてくる。
 けれども、その煩悩の嵐の中にも、念仏において、本願の呼び声が、聞えてくると、こう申していいのじゃないか。


 さて、この「本願の呼び声」について、正親先生は大谷派名古屋別院の講演で詳しく語っておられます。

 親鸞聖人が読まれた「大無量寿経」は、人間が起こした願いではなく、人間がこの世に生まれた時から、かけられてある願いであることを、聖人は教えて下さるのであります。姿であらわさば掌(てのひら)を合わす、言葉であらわさば、ありがとうございますのほかないでしょう。
 その掌を合わせ、ありがとうと言う言葉が最も簡単に示されたものが、私は南無阿弥陀仏という名前でないかと思うのであります。
(中略)
 私は色々な人に出会って、この世のこと、家庭のこと、心の問題にせよ、困られた問題などの相談を受けますが、私はただ聞くだけで、解決策は何1つ指図できません。
 けれども、そう言う人が帰って行かれる後姿を眺めますると、ああ、この人もこうして一生を苦労して渡って行かれるのかと、後(うしろ)から自(おの)ずと湧いて来るものはお念仏なのです。
 後から、知らず知らず、ああ苦労してゆかれるなと、こうして出てきますものは、南無阿弥陀仏という念仏が、胸の内に出て広がりゆくのであります。


 最後に、正親先生のご著書『浄土真宗』のお言葉を、心静かに味わうこととさせて頂きたいと思います。


 念仏は、大きな光の前に、自分が見出された声であります。それを逆に言えば、我の崩(くず)れた音であります。
 主張するものがなくなった沈黙の声であります。ゆえに、自分は念仏している、他は念仏申さないということはないのであって、念仏すら忘れて暮らす自分に聞えてくる、我を呼ぶ声であります。


合 掌

本山布教使 大路唯彦
(兵庫県 教善寺)

                            

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