真宗興正派 本山 興正寺

真宗教団連合発行の法語カレンダー、ご覧になったことがありますでしょうか?
毎月一つの法語から真宗興正派・本山布教使の方々にお話を頂く今月の法話です。

合  掌


 親鸞聖人は、『正像末和讃』の中で次のように讃じておられます。

「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな 
ねてもさめてもへだてなく
       南無阿弥陀仏をとなふべし」
                  『正像末和讃』


 また蓮如上人は、『御勧章』の中で次のように述べておられます。

 かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、
  いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり


 日暮しの中でお念仏を心がけるのが大切であると語られているのです。

親鸞聖人は、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、
よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。
                      『歎異鈔』第二条

 とあるように、常々、法然上人より「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」と聞いておられたのです。親鸞聖人はその「ただ念仏せよ」という教えを「ただ信じる」のみでありました。親鸞聖人の仏道とは、「ただ念仏のみ」の仏道であったといえるのです。

 愚かな凡夫が自らの力で仏になるのではありません。阿弥陀の大悲が、念仏をとなえる私のことを見つけ出し、浄土に生れさすのです。その大悲心である本願の力が、私の心に来たりてはたらいてくれているのです。そのすがたが、私たちが称えている「南無阿弥陀仏」であり、だからこそ念仏に意義があるのです。

 この私が称える念仏の一声一声のお念仏が、私のこころに信心となり、口に念仏となってはたらいている姿なのです。


大行とは、すなはち無碍光如来の御名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真実一如の功徳宝海なり。

「行巻」


 凡夫である私達は、仏を信じようとして念仏を称えているのではありません。また仏を信じたから念仏を称えているのでもありません。念仏とは、仏のことを信じきれないものを離さずに、頼まれもしないのに苦悩の心に至りて入り込みて、満ち溢れるはたらき、それが、念仏のなのだ、と親鸞聖人は言いあらわされているのです。

 本願の念仏は、いつでも、どこでも、だれでもいただけるがゆえに、私たち凡夫は有難く感じられないのではないでしょうか。長く聴聞を繰り返されているお参りさんの中にも、なかなか念仏だけでは物足りないように感じている人が多く見かけられます。
 これだけ聴聞をしているのだから、どんどん良い人間になっているはずだ。立派な人に成れてるはずだ、と自らを頼みとしているのです。如来さまのただ念仏するのみで助けて下さるという有難さが分からなくなっているのかもしれません。

 阿弥陀さまの願いは、あなたの人生がどんな苦悩を抱え悲しみ多い人生であってもあなたのいのちを根底から支えて、そして悔いのない人生を歩ませ、この世のいのちが終わったとき、必ずさとりの世界の浄土に生れさせて、仏さまのいのちに仕上げましょうと願われているのです。それが南無阿弥陀仏のお念仏なのです。

 こう受け取らしていただきますと、如来の本願は念仏であり、称える念仏には、如来の本願が満ち満ちて下さっている。それを私がいただき称えさせていることに喜びが感じられます。

弥陀の尊号となへつつ 信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり
                      『正像末和讃』

 かたじけない事です、勿体なことですと、いつもわが身を反省しながら、こんな私を救いの目当てとされた阿弥陀さまを想いつつ、有り難くして今ある日々の暮らしの中で、南無阿弥陀仏のお念仏を称えていきたいものです。

合 掌

本山布教使 林 和英
(香川県 覚善寺)

                            

戻る