迦羅求羅虫(からくらちゅう) 吉岡妙由(奈良県 龍泉寺)

2019.05.14

吉岡妙由(奈良県 龍泉寺)

 

 2015年、ノーベル賞受賞のニュースを見て初めてニュートリノの存在を知りました。ニュートリノは、宇宙空間に大量に存在し、常に地上に降り注いでおり、しかも他の物質とほとんど反応せずにすり抜けていたのです。

 

 私たちにもたくさんの出遇いが降り注いでいます。人との出遇い、出来事との出遇い、本との出遇い、様々な出遇いを通して今の私が存在しているのですが、ほとんどの出遇いには反応せずに過ごしているのではないでしょうか。

 

 それは、全て自分の都合で物事を見、判断しているからです。

 

 元気な時は感謝もせず、それが当たり前のように過ごしていますが、病気になれば大騒ぎし、不幸を嘆きます。

 

 曇鸞大師が著された『往生論註』には、

 

 

    たとへば迦羅求羅虫の、その形微小なれども、もし大風を得れば身は大山のごとし。風の大小に随ひておのが身相となすがごとし。(中略)またかの風の、身にあらずして身なるがごとし。

 

 

 とあります。

 

 曇鸞大師は、おそらく誰も見たことのない「迦羅求羅虫」という虫について、その虫自身の姿・形はよく注意して見ないと分からないほどの微小であるが、大きな風を受けると大きな体になり、小さな風のときは小さな体になると説明されています。

 

 この譬えは、出遇いという風を受けて、そこに意味を見出していく生き方を願われたものではないでしょうか。私たちは身に起こる幸福な出来事は自分のものとして取り込みますが、不幸な出来事は撥ねのけ、嫌います。

 

 伽羅求羅虫は、身に受けるどんな風でも嫌うことなく、一つひとつの出遇いを納得して吸収し、わが身としているのです。

 

 どんな出遇いであっても納得するということは、我が身を知るということです。

 

 一人で生きているつもりでも、実は多くの人に助けられ、支えられていることを知らなければなりません。

 

 

    他人の悪口は嘘でも面白いが、
    自分の悪口は本当でも腹が立つ。

 

 

 まさに、私たちの姿を言い当てた言葉です。醜い自分を言い当てられた時、腹を立てるだけでは虚しいものですが、お念仏のみ教えの中で感謝の生活が身についていれば、腹が立っても反省し、納得することができるはずです。

 

 自分に都合の悪い出来事でも、見落とさず排除せずに、たまわった出遇いであることを忘れずに暮らしていきたいものです。

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