【百三十二】 「信長との戦い その三」 ~長島一向一揆~

2019.08.27

 天正二年(1574)七月、織田信長は伊勢国桑名郡の長島へと兵を進めます。長島は願証寺の所在地であり、一向一揆の本拠地となっていた所です。願証寺は本願寺住持の一族が住持をつとめる寺です。

 

 長島は伊勢国に属していますが、長島は伊勢、美濃、尾張の三国の国境に接する地であり、三国から行き来のできる地です。このころの願証寺は尾張、美濃、伊勢の三国の中心寺院と位置づけられており、三国の本願寺門徒はこの願証寺によって治められていました。

 

 信長勢はこれまで何度もこの長島の一揆勢と戦っています。最初に大きな戦いがあったのは元亀元年(1570)十一月です。本願寺と信長の戦いは元亀元年九月にはじまりますが、その二箇月後のことです。長島で一揆が蜂起し、一揆勢は長島の近くの尾張の古木江城を攻めました。城には信長の弟の織田信興がいましたが、一揆勢に攻められて自害しました。二度目の大きな戦いは元亀二年(1571)五月のことで、この時は信長勢が長島を攻めましたが、一揆勢の抵抗が強く、信長勢は退却します。一揆勢はそこを襲い、信長の家臣柴田勝家を負傷させ、氏家卜全を討ちとっています。三度目の大きな戦いは天正元年(1574)九月で、この時には信長勢が一揆勢を圧倒します。十月、信長勢は長島を退きますが、一揆勢は信長勢の不意をついて、信長の家臣林通政を殺害しています。

 

 こうして弟、家臣を失うなど、これまで信長は長島の一揆の対応に苦慮しています。この一揆を壊滅するため、天正二年七月、信長は長島に出撃したのです。

 

 信長の出兵に対し、長島の一揆勢は、篠橋、大鳥居、屋長島、中江、長島の五箇所の砦に立てこもって攻撃にそなえました。長島にいた女性や子どもたちも砦に立てこもりました。信長勢はまず篠橋と大鳥居の砦を攻めます。信長勢は大鉄砲で塀や櫓を崩して攻撃を加えました。攻撃に耐えかねて、一揆勢は降参を申し出ましたが、信長は降参の申し出を受けいれませんでした。これまで一揆勢に苦しめられてきたことから、信長は一揆勢をこのまま砦に閉じ込めて飢え死にさせようとしたのです。八月のはじめ、大鳥居の砦に立てこもっていた者たちが風雨に乗じて逃げましたが、信長勢はこれを追い、男女、千人ほどを切り捨てました。

 

 七月にはじまった信長の攻撃は九月まで続きます。このため糧食が絶え、屋長島、中江、長島の砦でも餓死する者が多くいました。九月の末、長島の砦に立てこもっていた人びとは降参しました。信長は今度は降参の申し出を受けいれました。人びとは砦を出ましたが、人びとが川を船で渡ろうとすると、信長勢は一斉に人びとに向け鉄砲を撃ちました。騙し討ちです。これにより大勢の人たちが射殺されました。この騙し討ちに怒った七、八百人の一揆衆が信長勢に刀で切りかかったため、信長勢にも死者が出ています。

 

 信長のめざしたのは一揆の壊滅です。のこった屋長島と中江の砦については、信長が砦に火をつけ立てこもっている人びとを焼き殺すよう命じたため、火がつけられました。これによって屋長島と中江の二つの砦にいた、男女、二万人ばかりが焼き殺されました。

 

 戦いは終わりました。願証寺の住持の一家も二歳の子だけが助かっただけで、あとは皆、死亡したと伝えられます。一揆はまさに壊滅しました。

 

 長島の一揆は信長に滅ぼされましたが、元亀元年の蜂起以来、長島ではきわめて多くの人びとが一揆勢に加わって信長勢と戦っています。有力な坊主は大勢の人をひきつれ一揆勢に加わりましたが、そうした有力坊主の一人に二の江の坊主という者がいます。二の江の坊主は尾張国海西郡の者で、信長が尾張を平定する前から服部左京進とともに海西郡を支配していました。

 

河内一郡は二の江の坊主、服部左京進押領して御手に属さず(『信長公記』)

 

 海西郡は二の江の坊主と服部左京進が押さえており、信長の手に属していなかったとあります。二の江の坊主と左京進は兵力として、河川や海で舟に乗って戦う兵団を従えていました。この服部勢は長島の一揆勢とともに信長勢と戦っています。

 

 二の江の坊主の二の江は海西郡の荷之上のことで、二の江の坊主は荷之上にあった興善寺の住持のことです。興善寺は五十数箇寺の末寺を有する寺でした。この興善寺は興正寺門下の寺です。のち興善寺は末寺ととともに東本願寺下に属することになります。興善寺はその後さらに西本願寺下に属しますが、この時には、末寺は興善寺に従いませんでした。

 

(熊野恒陽 記)

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