【百三十六】 「退去と籠城」 ~本願寺の分裂~

2019.08.27

 天正八年(1580)三月一日、近衛前久が勅使として大坂の本願寺を訪れています。本願寺は織田信長と戦ってきましたが、敗北は目前でした。かねてから朝廷は本願寺に信長との和睦を勧めており、本願寺はこの朝廷の勧めに従って信長と和睦することにしました。朝廷が勧めていた和睦を実行に移すため、前久が本願寺を訪れたのです。信長もこの朝廷の勧めを受けいれており、三月一日、前久が本願寺を訪れた際も、家臣を目付役として本願寺に遣わしています。

 

 和睦を受諾する条件として信長が示したのは本願寺の大坂からの退去です。信長は退去しなければ和睦に応じないとして、あくまで大坂からの退去を求めました。顕如上人はやむなく退去することに同意しました。

 

 三月十七日、信長は、退去以外のこまかな取り決めを示し、これらの取り決めに本願寺が同意するなら本願寺を赦免すると記した誓紙を朝廷に呈上しています。これをうけ本願寺の側も、閏三月五日、信長の示した取り決めに同意すると記した誓紙を朝廷に呈上しました。信長の示した取り決めは、多岐にわたりますが、そのうちの一つに、退去は七月の盆の前までに行なうということがあげられています。

 

 双方の誓紙が朝廷に呈上され、和睦はまさに成立しようとしていましたが、和睦は簡単には成立しませんでした。本願寺の内部に和睦に反対し、信長と徹底的に戦うべきだと主張する一派があって、そちらの側の動きが活発になってきたのです。和睦に反対する一派の中心にいたのは顕如上人の長男の教如上人です。この時、教如上人は二十三歳です。教如上人は信長には表裏があって信用することができないと主張しました。

 

 朝廷に誓紙が呈上された直後の閏三月十三日、教如上人は和睦に反対する雑賀の人たちと連署して、雑賀衆に対し本願寺を守るため大坂に上るよう消息を出しています。この消息は顕如上人には知らせず出されたもので、消息が出されたこと知った顕如上人は逆に雑賀衆に対し、大坂に上ることは無用だと書いた消息を下しました。これに対し、教如上人は顕如上人のいうことを信用してはならないと書いた消息を雑賀衆に出しました。対立は決定的なものとなっています。

 

 信長との取り決めでは大坂の退去は七月の盆前までということでしたが、四月九日、顕如上人は大坂を退去します。向かったのは紀伊国名草郡の鷺森の坊舎です。鷺森の坊舎は紀伊門徒の中心となる坊舎です。本願寺の親鸞聖人の御影も鷺森へと移されており、今後はこの鷺森の坊舎が本願寺ということになります。興正寺の顕尊上人も顕如上人とともに鷺森に移りました。

 

 顕如上人が期限前の四月に大坂を退去したのは、和睦反対派とのいらぬ争いを避けたためです。顕如上人は毛利輝元の支配する安芸国へ移転するということも考えましたが、結局は紀伊国へと移りました。紀伊には本願寺のために力を尽くしてきた雑賀衆がいます。雑賀衆は一度は信長に降伏しましたが、その後、勢いを盛り返し再び信長と戦っています。顕如上人は雑賀衆の力を頼ったのです。もっとも、雑賀衆には教如上人を支持する人たちも大勢いました。

 

 これに対し、教如上人の方は大坂にとどまり、信長との戦いを続けようとしました。教如上人は各地に消息を下し、戦いのための支援を求めています。教如上人を支持する末寺や門徒は少なくはありませんでした。

 

 門下に支援を求めるうちに、教如上人は自分は家督を継いだと主張しはじめます。そればかりか、法名を与えたり、絵像の本尊や親鸞聖人の御影などを下したりもしています。本尊の下付は本願寺住持がなすべきことです。これでは住持が二人いることになります。本願寺が大きく二つに分かれはじめたのです。

 

 一方の顕如上人は、教如上人の信長への敵対は自分の関知しないことだとして、信長との和睦の交渉を進めています。顕如上人が和睦の交渉を進めても、信長と教如上人との戦いは続いています。七月、信長は大坂周辺の本願寺の出城を攻撃します。この攻撃により、教如上人も退去を決めました。教如上人は信長に対し、あらためて八月十日までには退去すると誓約し、八月二日、大坂から退去しました。退去後、本願寺からは火が出て、大坂の本願寺の堂舎は全焼しました。

 

 教如上人が向かったのは雑賀です。教如上人が雑賀に着いても、顕如上人との対面は許されませんでした。教如上人はその後、紀伊を去ります。教如上人は、教如上人を支持した門末に助けられながら、東海、北陸の各地を転々として過ごします。

 

(熊野恒陽記)

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