【百七十七】親の思い 准尊上人が准秀上人の名でご消息を書いた

2019.08.27

 准尊上人が示寂したあと、准尊上人が亡くなった以後においても興正寺への変わらぬ協力を願った、ご消息が発せられます。

 

 態染筆候、仍為勧進浄因寺差越候、時分柄、可為造左候へとも、被為励寸志、馳走の段、頼入候、然者、今度前住にはなれ、失方角候、門徒ならては頼入へきかたなく候間、偏報謝の儀頼候、就其、不珍候へとも、人間ハいつるいきはいるをまたぬならひなれは、片時もいそきて安心決定あるへく候・・・弥無油断、法儀被懸心、真実報土の往生をとけらるへき事候、猶美作申へき也 穴賢〱

 

七月廿三日 准秀(花押)
九州 惣坊主衆中
同門徒中(「興正寺文書」)

 

 七月二十三日付で、九州の惣坊主衆中、同門徒中に宛てられたものです。署名は准秀とあります。文中、今度、前住に離れ、とあるのは前住である准尊上人が亡くなったということです。准尊上人は元和八年(一六二二)四月十四日に亡くなっていることから、このご消息も元和八年の七月のものということになります。

 

 書かれているのは、准尊上人が亡くなり、途方に暮れている、ということで、自分には門徒たちしか頼みとする人はいないので力を貸してほしい、と協力が求められています。続けて、人間界の無常なることを示し、早く安心決定するようにとの法語が述べられています。

 

 これと同様のご消息は、七月二十七日付で山城国、惣坊主衆中、同門徒中宛て、八月六日付で河内国、摂州中嶋、惣坊主衆中、同門徒中宛て、元和九年(一六二三)の四月四日付で紀伊国、惣坊主衆中、同門徒中宛てのものなど、他にも三通がのこされています(「興正寺文書」)。元和九年の四月四日のものは、元和九年の年付があるというのではなく、元和九年と判断されるというものです。いまはのこっていなくとも、同様のご消息は他の地域の坊主、門徒に対しても書かれたものと思われます。七月二十五日は准尊上人の百箇日にあたっていますが、そのころから順次にご消息が発せられていったようです。

 

 現在、のこされている准尊上人の示寂後の協力を願う四通のご消息は内容は同様であっても、これらには大きな違いがあります。元和九年四月四日付のご消息と、それに先立つ元和八年の七月二十三日付、七月二十七日付、八月六日付のご消息とでは筆跡が違っているのです。元和九年四月四日付のご消息は准秀上人の筆跡です。対して、それ以前の三通のご消息は筆跡が准尊上人のものです。准尊上人の筆跡の三通のご消息には准秀との署名がありますが、この署名も准尊上人の筆跡ですし、何より署名の下に据えられた花押が准尊上人の花押です。つまり、これら三通のご消息は亡くなった准尊上人自身によって書かれたものなのです。

 

 元和八年四月十四日に准尊上人は亡くなりますが、この時、准尊上人は三十八歳であり、息男の准秀上人は十六歳です。まだ若い准秀上人のために、死期をさとった准尊上人が自ら自分の死に触れたご消息を書いたということになります。

 

 准秀との署名があるものの准尊上人の筆跡で書かれたご消息は、このほかにも一通のこされています。三月十七日付で大坂、天満、拘門徒中宛てのものです。内容は天満御坊の再興がいまだ不十分なので、完成に向け助力を願いたいとするものです。

 

 天満坊、先年雖再興候、未半作之体候間、被励寸志候ハハ、仏法可為興隆候(「興正寺文書」)

 

 天満御坊は慶長十九年(一六一四)の大坂夏の陣、同二十年(一六一五)の大坂冬の陣により焼失します。その後、再興の工事がはじまりますが、このご消息はその工事の完工を願って書かれたものです。書かれたのは元和八年です。准秀上人が得度するは元和七年(一六二一)四月十九日で、准秀と名乗るのはそれ以後のことです。准尊上人は元和八年四月に亡くなっており、准尊上人の存命中で、三月に准秀との法名が用いられているのなら、それは元和八年ということになります。元和八年の三月であれば、准尊上人の示寂の直前です。准尊上人はかねて天満御坊の再興が進まないことを気にかけており、死期をさとって、自分の死後、天満御坊の再興のためにかかる准秀上人への負担を少しでも減らそうとしてこの御消息を書いたのだと思われます。

 

 まさに親としての思いであり、こうした思いから、准尊上人は准秀との名で、自分の死について触れたご消息を書いていったのです。

 

(熊野恒陽記)

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