【百八十一】准尊上人十三回忌 池坊専好が広間の花を生けた

2019.08.27

 准尊上人は元和八年(一六二二)四月十四日に亡くなっており、寛永十一年(一六三四)は准尊上人の十三回忌の年にあたっています。

 態染筆候、仍当年ハ当寺前住上人之相当十三年ニ候間、可遂相応之報謝候、就其、当御堂之儀、先師在世之きさみ成就するといへとも、内陣之荘厳首尾せす候間、予是を思立事、年をかさね日をつむといへとも、終其所詮なく候、そのうゑ先年火事出来候、其以来再興をとけす、万端不如意之仕合推量あるへく候、それにつき此度諸門徒中之以馳走、内陣之荘厳ならひに作事の儀、をもひたつへき覚悟に候(「興正寺文書」)

 

 寛永十一年の准尊上人の十三回忌にあたって記された准秀上人のご消息です。三月二十五日付で、周防、長門、豊前、豊後、筑後、筑前、惣坊主中、同門徒中へ宛てられたものです。今年は准尊上人の十三回忌の年にあたるので、相応の法要を営みたいとあります。

 

 そして、御堂の内陣の荘厳の整備がいまだ十分なものではないので、これを機に荘厳の整備を進めたいとして、その協力を求めています。合わせて、先年、火事が起こり、その再興も滞っているので、その工事についても協力を願いたいということも述べられています。同様のご消息は、このほか、伊勢、越前の惣坊主衆、同門徒衆、阿波、讃岐の惣坊主衆、同門徒衆、播磨、伯耆、因幡、出雲、但馬の惣坊主衆、同門徒衆に宛てられたものがのこされています。当然、それ以外の地にも下されていたはずです。十三回忌に際し、興正寺の全門下に内陣の整備と工事への協力が求められているのです。ここに記される火災については、興正寺ではそれにまつわる伝えは何も伝えていません。ほかに伝えがないことからするなら、それほど大きな火災ではなかったということなのだと思います。

 

 このご消息にいう准尊上人の十三回忌の法要は、四月の十一日の夜から十四日までの三昼夜にわたって営まれます。法要は興正寺の本堂で行なわれました。

 

 この法要に備え、興正寺では広間の上段、ならびに床、違い棚、襖障子などを新しくしました。法要の時はこの床に観音の絵を中尊に、左に朝陽、右に対月の三幅の絵を掛けました。観音の絵の前には三具足が置かれ、左右の絵の前にも花瓶が置かれました。観音の絵の前の花瓶には杜若、左右の絵の前の花瓶にはともに松と花が生けられました。これらの花は池坊専好が生けたものです。江戸時代の初期には初代池坊専好と二代目池坊専好の二人の専好が活躍しますが、興正寺の花を生けたのは二代目の専好です。二代目専好は後水尾上皇に気に入られ、上皇や公家たちの立花の指導にあたった人です。立花の大成者とも評されています。

 

 本堂の内陣には北側の脇壇に親鸞聖人の等身の御影、南側の脇壇に准尊上人の御影が掛けられ、南側の余間の押板には顕如上人と顕尊上人の二幅の御影と十字名号が掛けられていました。本尊前の前卓には花瓶一対と土香炉が置かれています。前卓の水引は法要にあわせて新調したものでした。

 

 四月十一日の逮夜には文類正信偈が勤められました。西本願寺では歴代の住持の年忌の際、逮夜の勤行に文類正信偈が読まれます。准尊上人の十三回忌でも文類正信偈が勤められました。

 

 十二日は晨朝に正信偈、日中に無量寿経の上巻が勤められました。日中の勤行後は斎があり、斎が済んでから逮夜の勤行です。逮夜の勤行の後は非時で、非時が済んでから初夜の勤行がありました。

 

 十三日も晨朝から初夜まで、十二日と同様の勤行がありました。この日の日中には無量寿経の下巻が勤められています。

 

 忌日の十四日は晨朝の勤行のあと、点心が振る舞われました。点心とは軽い食事のことです。その後の日中の勤行では観無量寿経と阿弥陀経が読まれました。前日までの勤行には興正寺の門下の坊主たちが出仕しましたが、この日の日中の勤行には、興正寺の門下ではない、常楽寺、定専坊、西光寺といった西本願寺下の有力な寺の住持たちも出仕しました。日中の勤行のあとは斎です。常楽寺、定専坊、西光寺の住持たちも興正寺の門下の坊主たちと斎を食しました。

 

 准尊上人の年忌法要は、これ以前に一周忌、三回忌、七回忌が行なわれ、これ以後も十七回忌が行なわれます。こうした法要は門下を含めた興正寺全体で行なわれるものであり、門下はこうした法要を通じて門下としてのまとまりを強めていきました。

 

(熊野恒陽 記)

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