【百八十二】学寮 興正寺の横に学寮が移築される

2019.08.27

 寛永十六年(一六三九)十一月十四日、西本願寺の学寮が落成します。学寮は西本願寺の教育用の施設です。この学寮は京都の三条銀座の野村屋宗久が資金を出して建立されたものです。宗久は娘を亡くし、その菩提を弔うため資金を出しました。三条の銀座は貨幣としての銀を鋳造した所です。銀座は三条通りと烏丸通りの交差点の北西部にありました。銀座では銀の細工とともに両替も行なっています。野村屋も両替商でした。宗久は自分の屋敷を会所にした西本願寺下の講の運営をするなど、西本願寺の熱心な門徒でした。

 

 学寮が建てられたのは西本願寺の阿弥陀堂の北側の地です。阿弥陀堂の北側には茶所がありましたが、学寮はその西側に建てられました。この場所はかつて准如上人が日常を過ごした建物があった所です。そこに講義が行なわれる集会所と、講義を受講する所化が住む所化寮の二棟の建物が造設されました。集会所は東面しており、東側に所化が講義を聴く広い部屋がありました。この部屋の西側の奥は一段高くなっています。高くなっているのは幅一間分で、その奥に木仏が安置されていました。講義を受講する所化に対し、講義を行なう講師を能化といいますが、能化はこの一段高くなっている所に座り、講義を行ないます。この部屋のさらに西側には壁を隔て、南に台所、北に雑用の仕事をしていた者が住む部屋がありました。所化寮は二階建てで、四畳敷の部屋が三十ほどあります。この部屋に所化が二人ずつ住みました。所化寮には所化だけはなく、講義を行なう能化も住みました。能化は所化寮の西側奥の二部屋を居室としました。

 

 学寮の初代の能化となったのは河内国茨田郡出口の光善寺准玄です。准玄が能化となったのは寛永十七年(一六四〇)のことです。この時、准玄は五十二歳でした。光善寺は蓮如上人が開き、蓮如上人の長男の順如上人が継いだ寺です。その光善寺の住持であった准玄は能化に任じられると、所化寮へと移り、以後、正保三年(一六四六)に能化を辞するまで、七年間にわたってこの所化寮の四畳二間の居室に住みました。

 

 能化となった准玄は安居の結夏の日である寛永十七年の四月十五日から講義を始めます。最初は和讃が講じられました。所化となったのは末寺の僧侶たちです。

 

 江戸時代、幕府は仏教の各宗に強い統制を加えます。幕府は各宗にいろいろなことを命じますが、その一つとして、幕府は諸宗に教学を研究して、門下に学問を教育するように命じます。こうした幕府の施策を受け、仏教各宗は、壇林や談義所といった研究と教育の機関を設けていきます。真宗は、直接、幕府から命令を受けたわけではありませんが、西本願寺に学寮が設けられたのもこうした動向と関連しています。

 

 学寮は宗久が資金を提供して建立されますが、熱心な門徒とはいえ、俗人である宗久が僧侶たちの教育施設の建立を自分で思い立ったとは考えにくいことです。これは西本願寺の良如上人が学寮の建立を希望しており、その良如上人の願いにそって宗久は資金を提供したということなのだと思います。良如上人は幕府の施策をも考慮して、かねてから学寮の建立を希望していたのだと思われます。学寮の建立にあたって、宗久は建設費用だけではなく、今後の学寮での人件費に充てるための基金として、多額の銀子をも提供しています。

 

 学寮はこの後、正保四年(一六四七)、西本願寺境内地外の西侍町に移築されます。前年、准玄は能化を辞しており、正保四年からは豊前国企救郡小倉の西吟が二代目の能化となります。西吟は正保四年の九月十二日から移築された学寮で阿弥陀経を講じました。西侍町への移築後、所化寮は所化だけが住むようになります。西吟は長屋に住んで、そこから学寮に通いました。

 

 学寮はその後、承応元年(一六五二)、再度、移築されます。学寮が移築されたのは、東は堀川通りに面し、北は道を隔てて興正寺に接する南川端の地です。この時の興正寺の境内地はいまより狭く、南の端はいまの御影堂の南側の廂あたりまでしかありませんでした。学寮が移ったのはいまの興正寺の境内地の東南部分に当たります。この地には興正寺に仕えた下間式部卿の屋敷がありましたが、式部卿には西本願寺から替地が与えられ、この南川端の地に学寮が移されました。

 

 これから四十年ほどののち、光善寺准玄の孫である寂玄は異義を唱えたとの嫌疑をかけられます。そのため光善寺は大谷派に転派します。これにより西本願寺は准玄が能化であったという事実を抹消し、西吟を初代の能化とするようになりました。

 

(熊野恒陽記)

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