【二百二】承応の鬩牆 その十一 「対延寿寺被仰出条々」

2019.08.27

 良如上人は承応二年(一六五三)四月十四日に江戸に向け京都を出立することになりました。月感と西吟はこの十四日の未刻半、すなわち午後三時ごろ西本願寺に呼び寄せられ、それぞれに裁定書を渡されました。良如上人はこの後、申刻半、すなわち午後五時ごろ江戸に向け出立しました。以前より打ち合わせられていた通りに、出立の直前に裁定書を下したのです。

 

 裁定書は横田帯刀や下間少進など五人の西本願寺家臣の連名で出されています。良如上人の意見をこれら五人の家臣が聞き、それを月感、西吟へと伝えるという奉書といわれる形式のものです。

 

対延寿寺被仰出条々
一、御意之委趣ハ、双方共ニ安心ノ筋目ハ異儀有
間舗ト被思召候、乍去永照寺学寮ニテ講談ノ時、所化二対シテ、或ハ自性一心、或ハ観心表事ノ沙汰、惣シテ諸宗諸法ノ理ヲアカスヲ曲事ノヤウニ存セラルヽハ、オロカナル心得也・・・学人ニムカフトキハ、ソノ聖教ノ理ヲアキラカニノヘサレハ学問ノ詮モナク、亦其理ヲ心得サレハ諸人ヲ教化スルコトモナリカタシ

 

 月感に宛てられた裁定書は、最初に月感に対して良如上人が仰せれられた条々であるということを記し、次いで六条にわたって良如上人の意見が記されています。その一条目にまず述べられているのは、良如上人は月感と西吟の双方ともに教学の理解において誤ったところがない、との意見を持っているということです。両者は正しい教学の理解をしているものの、考え方にいささかの相違があって、その相違がもとで対立しているのだというのです。良如上人は月感と西吟には考え方に多少の差があるだけだとして、穏便なかたちで両者の争いの解決をはかろうとしたのです。そして、こうした立場から、良如上人は月感に、月感は西吟が自性一心、観心表事ということを説き、諸法の理ということを重んじることを誤りのようにいっているが、学問を教える時には聖教の理を明らかにして述べなければならず、理を知らなくては人を教化することもできないではないか、との意見を示しています。西吟は学問のため自性一心や理ということを説いているのであって、問題はないというのです。

 

 聖道自力ノ難行ヲキカサレハ、浄土他力ノ易行ナルホトモシリカタキユヘ、シハラク諸法ノ理ヲノヘテ一流真実ノ信心ヲスヽムル

 

 良如上人は、聖道門が難行であることを教えなければ、浄土門が易行であることも分からないから、一旦、諸法の理を説き、そこから他力の信心へと導くのであり、聖道門のことを教えることも必要なのだとの考えも示しています。それとともに一条目では、月感には事実の誤認があるということも指摘されています。

 

 条々ノ趣、永照寺申分トハ大ニ相違アリ、コレ見聞ノ不足ナル故カ、或ハイヽキカスルモノヽ失カ

 

 月感の西吟に対する批判には些細なことを大げさに述べたものや、こじつけのような批判がみられますが、それをたしなめたものです。西吟について十分な見聞がないか、西吟のことを語った者が誤っているのではないかと述べられてはいますが、月感の批判にはとかく大げさな批判が目につきます。

 

 このほかの条には所化の階位について触れたものもあります。月感は西吟が学寮で学問の進度に応じて所化に階位を定め、階位ごとに服装も決めていたことを外面を飾るものだとして批判していました。これに対して裁定書では、学寮の階位は西吟が能化となる際、良如上人に内容を示し、良如上人の承諾を得て定めたもので、西吟の独断で定めたものではないとしています。すべては西吟の責任だとして、西吟だけを批判するのは誤っているというのです。

 

 別の条では『私観子』のことも触れています。月感は西吟は空の理観のことを説いているとして、その証拠に『私観子』という本を挙げ、その本にも空の理観のことが書かれているとしています。月感は『私観子』を西吟の述作としているのですが、裁定書では『私観子』は西吟の述作ではないとしています。

 

 私観子、永照寺作ノヤウニ申サルヽ事、是亦相違ナリ

 

 西吟を嫌うあまりに、月感の西吟への批判には大げさなものやこじつけのようなものもみられますが、それでは事実を歪曲させたということになります。これは月感の落ち度です。裁定書は全体としてそうした面をいましめる内容となっています。

 

(熊野恒陽 記)

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