【二百三】承応の鬩牆 その十二 「対永照寺被仰出条々」

2019.08.27

 四月十四日、月感と西吟の二人に裁定書が下されます。西吟に下された裁定書も横田帯刀や下間少進など五人の西本願寺家臣の連名で出されたもので、月感に下された裁定書と同じ体裁です。西吟への裁定書には良如上人の意見が三箇条にわたって記されています。

 

対永照寺被仰出条々
一、御意之意趣ハ、双方共ニ安心之筋目者異儀有
間敷と被思召候・・・今度延寿寺より法難之訴状被指上ニ付而、重テ覚悟ノ通、御書せ被成、高覧ニソナヘラルヽニ、始終無相違被思召候、然処ニ永照寺邪義ヲ勧らるゝ証人有之由、延寿寺ヨリ申上ラルヽ間、若、実ニ証人ニ出申者有之候ハヽ、其者ヲ被召出、実否ヲ御穿鑿可有事

 

 最初に西吟に対して良如上人が仰せれられた条々であるということが記され、次いで良如上人の意見が記されています。まず述べられるのは、良如上人は西吟と月感の双方ともに教学の理解において誤ったところがない、との意見を持っているということです。ここまでは月感に下された裁定書と同じです。これ以下が西吟に対する良如上人の独自の意見ということになります。以下には、月感から西吟には教学の理解に誤りがあるとの訴えがあったので、西吟に自身の理解を書面にしたためさせ、良如上人がそれを確認したところ、良如上人は書面には最初から最後まで何の誤りもないとの見解をいだいた、と記されます。西吟の理解には誤りがないというのが良如上人の意見だということです。続けて記されるのは、月感は西吟が誤ったことを説いていることには証人がいるといっているので、もし本当に証人がいるなら、その者のいっていることを調べ、その上で実否を判断することになるということです。証人がいるという以上は等閑視することもできないため、こうした一文が記されました。

 

 次の条には、西吟が諸法の理ということを強調することについて触れられています。

 

 アマリ諸法ノ理をツヨク演説イタサルヽニ依テ、初心ノ者ハ御一流ノ安心ノ趣ヲソハサマニキヽマトフ者モ有之故、カヤウノ法難モ出来スルモノカ、今少心得不足ニ被思召事

 

 諸法の理を強調して説くと、初心者は真宗の教えをそのまままっすぐに捉えずに曲げて捉える者も出てくるし、そのために月感の批判をも招くことになるのである、と記されています。西吟が聖道門の教えと交えて浄土門の教えを説いていたことは良如上人も事実として認めており、それをたしなめているのです。

 その次の条では西吟が勤行をおろそかにし、御堂に出仕しないことが述べられます。

 

 御堂ヘノ出仕懈怠之段、誠不足也、以来被嗜可然被思召事

 

 御堂への出仕は確かに不足しているので、今後は出仕に励むように、というのが良如上人の意見であると記されています。月感が述べた西吟が御堂に出仕しないということは、事実として確認されたのです。

 

 西吟への裁定書は、出仕の不足や諸法の理を強調することをいましめるものの、西吟の教学の理解には何の誤りはないとするものでした。月感の裁定書も、月感の西吟に対する批判にはこじつけのような批判や大げさな批判があるとして、そうした面をいましめたものでした。二人への裁定書には、ともに一条目の冒頭に月感、西吟の双方の教学の理解には誤ったところがないと記されていますが、良如上人は月感と西吟には考え方に若干の違いがあるだけだとして穏便に双方の争いを終わらせようとしたのです。二人に裁定書を下した直後に良如上人は江戸に出立し、しばらくは江戸に滞在します。良如上人が京都にいないからには月感は何もいってこないはずであるとして、良如上人をはじめ西本願寺の関係者らはこの裁定書の下付をよって争いはすべて解決したものと思っていました。

 しかし、事態はそうは進みませんでした。

 

 延寿寺、御留主中ニ又、再破、書立、御門跡様御上洛ヲ相待被申(『承応鬩牆記』)

 

 月感は良如上人の留守中、『再破』と題する書を著わしており、良如上人が京都に戻ってくるのを待っていたのです。『再破』は月感の批判に答えた西吟の『真名答書』、『仮名答書』に対し、それらへのさらなる批判を述べた書です。四月十四日に京都を出た良如上人は五月二十九日に京都に戻ってきます。良如上人が京都に帰ってから十日あまり経った、六月中旬、月感は西本願寺にこの『再破』を提出します。

 

(熊野恒陽 記)

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