【二百六】承応の鬩牆 その十五 准秀上人の不満

2019.08.27

 月感は承応二年(一六五三)の十二月四日、東本願寺の寺内に逃げ込みます。西本願寺が月感を処罰しようとしたことから、それを避けるため東本願寺の寺内に逃げ込みました。西本願寺も東本願寺には手出しができません。月感の身は安全なものとなりました。

 

 月感が東本願寺寺内に逃げ込んだこの十二月四日、興正寺の准秀上人は西本願寺の家臣たちを興正寺に呼びつけています。呼ばれたのは西本願寺の良如上人に親しく仕えていた五人の重臣たちです。准秀上人は西本願寺の月感に対する扱いに不満を感じていました。月感は興正寺の門下に属しており、准秀上人は月感を後見する立場にあります。准秀上人には西本願寺の月感に対する扱いを含め、さまざまな不満がありました。その思いを述べるために家臣たちを呼んだのです。

 

 家臣たちを呼ぶにあたって、准秀上人は良如上人に提出する口上書を用意していました。口上書には西本願寺に対する批判が書かれていました。准秀上人は家臣たちとの対面の際、この口上書を家臣たちに渡し、良如上人に届けさせるつもりでした。准秀上人は良如上人には書面で批判を述べるとともに、家臣たちには、直接、口頭で批判を述べようとしたのです。准秀上人がいだいていた不満は口上書の記述から知ることができます。口上書には二つの不満は記されていました。

 

 その一つは月感が良如上人に提出した「三箇条訴状」に関わることです。月感と西吟の争いは月感が良如上人に西吟の非を述べたこの「三箇条訴状」を提出したことから大きく展開していきますが、准秀上人は、当初、月感が訴状を提出することに反対していました。准秀上人は西本願寺の家臣たちに、良如上人に訴状を提出すれば争いは良如上人をも巻き込んだ大きなものとなるので、そうなる前に、家臣たちや、月感が門下に属する興正寺の住持である准秀上人自身によって解決されるべきだといっていました。しかし、実際には准秀上人の主張とは反対に良如上人に訴状が提出されることになります。准秀上人は、これは西本願寺の家臣たちの対処の仕方に誤りがあったためそうなったのだとして、家臣たちの対応を批判しています。家臣たちが上手く対処していればそもそも争いも大きくならなかったのだというのが准秀上人の思いです。

 

 もう一つは西本願寺の月感と西吟の争いへの対応に関わることです。訴状が提出され争いが大きくなった以上、争いは適切に解決されなければなりませんが、准秀上人は月感と西吟の争いは二人が討論をした上で良如上人が両者の正否を判断して解決すべきだとしていました。それとともに准秀上人はその二人の討論と両者の正否を判断する場には准秀上人自身も立ち会いたいとの要望も伝えていました。しかし、西本願寺は二人に討論をさせることもなく、裁定書を下すことで両者の争いを解決したものとしました。その裁定書にしろ、准秀上人には何の相談もないままに書かれたものです。准秀上人の意向はまったく聞き入れられなかったのです。口上書によると、准秀上人の二人の討論と両者の正否を判断する場に立ち会いたいとの要望に対し、良如上人は無用だといったといいます。

 

 御批判之刻者、我等も罷出、被仰付候様子をも蒙り、下坊主ともへも可申聞と申候へ者、無用との御返事候

 

 准秀上人は興正寺門下の月感に対する判断の場であることから自身が立ち会うのは当然のことだとしており、興正寺の門下の坊主たちに良如上人が判断を述べる様子を伝えるためにも立ち会いたいと思っていました。それに対する返答が無用という言葉だったのです。

 

 無用との御意、外聞あしく存候

 

 口上書には、無用というのでは外聞が悪いと書かれています。准秀上人は面目をつぶされたのです。月感と西吟の争いの解決に向け、西本願寺は、一切、准秀上人の意向をくみ取ることなく、准秀上人をなおざりにして、西本願寺だけで事にあたったのです。このことが准秀上人にとってもっとも大きな不満でした。

 

 准秀上人はこの二つの不満を述べ、家臣たちを責めました。准秀上人が家臣たちを責めるのには別の理由もあります。准秀上人が良如上人に意見を伝える際には、直接、良如上人に意見を伝えるのではなく、家臣を介して伝えられました。この時、家臣たちは准秀上人の意見をゆがめて伝えました。准秀上人をひどくおとしめる伝え方すらしていました。准秀上人はこうした家臣たちの振る舞いを嫌悪していました。そうした思いからも家臣たちを責めたのです。

 

(熊野恒陽 記)

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