【百五】 「摂津通路之儀」 ~細川晴元との和談の交渉は蓮秀上人が進めた~

2019.08.27

 蓮秀上人は天文三年(1534)十二月二十八日、紀伊へと下り、天文四年六月二十五日、大坂へと戻ります。蓮秀上人は紀伊から五、六百人の人びとを引き連れて大坂へと戻りました。

 

紀州衆五六百人上候、興正寺被上候也、於御堂紀州衆ニ御酒被下候(『私心記』)

 

 これに先だって、六月十八日には紀州の雑賀衆が三百人ほど大坂へと上っています。紀州から人びとが大挙して上ってきたのです。

 

 細川晴元と本願寺の戦いは続いていましたが、六月、紀州衆が上った時には、本願寺はかなり不利な立場に追い込まれていました。

 

 天文四年五月末、敵は河内を攻め、大坂へと迫ります。六月十一日には、大坂に近い高津、渡辺、津村を焼き、十二日には大きな戦闘が起こり、一揆勢五六百人が討ち死にしました。本願寺方の劣勢は明白で、一向衆は滅亡したともささやかれました。

 

尾坂本願寺有合戦、一揆五六百人打死云々、大概一向衆此時滅亡歟(『後奈良天皇宸記』)

 

 紀州衆は一向衆が滅亡したといわれたこの大敗の知らせをうけて、大坂に上ったのだとみられます。しかし、もはや大勢は決していました。六月十二日の大敗以後、晴元勢と一揆勢との戦闘はみられなくなります。

 

 六月の合戦以降は大坂寺内町も晴元勢に取り囲まれていたようです。本願寺の敗北は明らかでしたが、敗北で終わるなら、本願寺は細川晴元、さらには将軍の足利義晴に逆らい、それで倒されたというだけのことになってしまいます。将軍に逆らったことの責任が問われますし、体面も保たれません。敗北ではなく、和睦というかたちでの終結が求められました。

 

 この和睦に向けた交渉を中心となって進めたのは蓮秀上人です。

 

摂津通路之儀相調云々、興正寺扱云々

 

 『私心記』天文四年九月二日条です。摂津の通路は蓮秀上人によって調えられたとあります。大坂寺内町はまわりを囲まれ、通行もさえぎられていたようですが、通路を調えたとは、遮断された通路を開かせたということなのだと思います。蓮秀上人が晴元方に交渉して開かせたのです。

 

依通路儀、町衆連書サセラルト云々(『私心記』)

 

 翌三日には通路のことで町衆が蓮書させられています。通路を再開するにあたり、晴元方といさかいをおこさないように連書して誓約を交わしたということのようです。通路が開かれたということは、包囲を解かれたということです。通路の確保はまずはなされなければならないことでした。

 

 こののちの九月十一日となって、蓮秀上人は三宅氏に対し、子息を人質としてつかわしています。

 

興ヨリ子息三宅ヘ人質ニ遣候(『私心記』)

 

 三宅とは三宅国村のことと思われます。国村は摂津国島下郡三宅にいた武士です。国村は摂津では有力な武士でした。晴元と本願寺との戦いの間は、一揆方に与し、門徒になっていました。蓮秀上人が三宅国村に人質を出したのは摂津の通路のことと関連してのことと思われます。子息を人質に遣わすほどのことですから、相当に重要なことであったのだとみられます。

 

 この三宅国村は下間頼広の娘を妻としていました。下間氏は、代々、本願寺住持に仕えた一族です。下間氏は本願寺住持ばかりでなく、本願寺住持の一族にも仕えていました。下間頼広は、摂津富田の教行寺に仕えていた下間氏です。頼広の娘たちは、国村をはじめとして、近くに住む武士たちに嫁していました。

 

 晴元と本願寺との和睦については、蓮秀上人だけでなく、教行寺住持とその弟も大きな役割をはたしたといわれます。

 

教行寺実誓、同舎弟式部卿賢勝、興正寺連秀、忠孝をいたし和談の儀とゝのへ給し(『今古独語』)

 

 教行寺と国村とは関係があるのであり、国村には教行寺からも強い働きかけがあったのだとみられます。

 

 こうして和睦に向けての交渉が進むなか、下間頼秀、頼盛の兄弟が大坂寺内を退去します。二人は証如上人に仕えた下間氏です。頼秀は下間氏のなかでは筆頭の地位にあり、晴元との戦いの際は、この二人が本願寺方の軍事の指揮にあたっていました。本願寺が和睦へと向かうなか立場を失ったのです。二人は本願寺の重臣として力をふるいましたが、その最期は哀れです。のち二人は、戦いについての責任があるとして、証如上人の命により、殺されます。

 

(熊野恒陽 記)

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