【百六】 「一家衆」 ~恩賞として一家衆となる~

2019.08.27

 本願寺と細川晴元との和睦の交渉は蓮秀上人が中心となって進められます。蓮秀上人は摂津の通路の確保などに尽力しました。

 

 晴元と本願寺の和睦が成立するのは天文四年(1535)十一月の末のことです。これには本願寺の本寺である青蓮院門跡の協力をえました。次いで、本願寺は天文五年の八月に将軍、足利義晴、十一月に近江の六角定頼とも和睦します。

 

 本願寺と諸勢との和睦が進められたことにともなって、各地の本願寺の御坊も坊舎の再興や住持の還住が許されるようになります。細川晴元との争いでは、各地の御坊も攻撃され、坊舎が焼かれたり、住持が居住地を追われたりしました。天文五年の一月には大和吉野の本善寺、勝林坊の住持の還住についての交渉がはじまり、十月には堺御坊や摂津富田の教行寺の再興が認められています。勝林坊はのちの願行寺のことです。

 

 享禄五年(1532)から続いた細川晴元との戦いもついに終わりました。人びとは普通の生活へと戻っていきます。

 

 本願寺と細川晴元との和睦の交渉は蓮秀上人が中心となって進めましたが、蓮秀上人はそれにより本願寺の一家衆となります。蓮秀上人が一家衆となるのは晴元との和睦が成立した直後の天文四年十二月十八日のことです。

 

 一家衆は本願寺下における身分の一つです。本願寺には一門衆、一家衆といった身分がありました。これらの身分は実如上人の時代に、実如上人の子息である円如や実如上人の兄弟によって定められたものです。円如は本願寺を継ぐことなく、亡くなった人です。

 

当分御連枝一孫は末代一門たるべし、次男よりは末の一家衆一列たるべし(『反故裏書』)

 

 当代の実如上人、および円如の兄弟は、代々、嫡流の者が一門衆となり、実如上人、円如の兄弟の子でも、次男以下の庶子は一家衆となる、と述べられています。一門衆、一家衆とは、本願寺住持の一門、本願寺住持の一家ということであり、ともに本願寺住持の一族に受け継がれる身分です。一門衆と一家衆とは区別されていましたが、一門衆、一家衆の双方を一括して、一家衆と呼ぶこともありました。

 

 本願寺は一門衆、一家衆をきわめて重視しています。待遇も特別でした。本願寺の一族は北陸や東海、それに畿内の各地に住んでいましたが、一族が住んでいる地域では、一般の末寺、道場は本願寺一族が住む寺に従うことが求められました。本願寺の一族の住む寺の護持も一族の寺がある地域の門徒たちがすることになっていました。本願寺は一族を、その居住する地域のまとめ役としているのですが、地域の末寺からみれば、一族は自分たちの上に立って、何かと協力を求めてくる存在です。そのために時には争いも起こりました。

 

 近江堅田の本福寺は蓮如上人が本願寺の住持となる前から本願寺の門下であった寺ですが、この本福寺も本願寺一族と争っています。本福寺は本願寺一族から、寺に伝わる十字名号、親鸞聖人絵伝、聖教を出すよう求められたり、門徒を取り上げられたりしました。このほかにもいろいろな迫害を受け、本願寺門下を破門されるまでに追いこまれています。本福寺住持は、一家衆には芥子粒の千分の一ほどであっても心を許してはならないと書きのこしています(『本福寺跡書』)。

 

 一門衆、一家衆は地域の末寺と争いを起こすこともありましたが、一門衆、一家衆の立場はやはり特別なものです。細川晴元との和睦の交渉を進めたことにより、蓮秀上人はその一家衆になったのです。蓮秀上人が一家衆となったことに対し、興正寺門下は天文五年四月二十九日、証如上人に礼の品を贈っています。

 

従興正寺門徒坊主衆幷惣門徒、就去年興正寺ヲ成一家たる、為礼五種十荷来、使ハ端坊、東坊、堺阿弥陀寺也(『天文日記』)

 

 興正寺の末寺頭である端坊、東坊、阿弥陀寺の三箇寺が、門下を代表して証如上人のもとを訪れました。

 

 蓮秀上人はいわば恩賞として一家衆になりましたが、これについて、証如上人は甲斐の万福寺に蓮秀上人が一家衆になったことを告げ、万福寺がそれに納得するように取りはからっています(『天文日記』)。万福寺は興正寺の第三世とされる源海上人の弟子にあたる、源誓が開いた寺です。興正寺と同じ荒木門徒に属する寺であり、甲斐で大きく発展していた寺です。証如上人も万福寺に対しては、蓮秀上人が一家衆となったことを納得させる必要があったようです。

 

(熊野恒陽 記)

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