【百十四】 「武将との関係」 ~書状と物のやり取り~

2019.08.27

 本願寺は細川晴元と激しく戦いましたが、戦いが終わったのちは、争いに関わることもなく、平穏な日々を過ごしていきます。晴元との戦いでは実質的に敗北しましたが、この時代の本願寺は社会的にも大きな存在です。本願寺の末寺は近畿、北陸、東海、山陰、山陽、四国、九州の各地にひろがり、本願寺門徒の数は多大な数に及んでいます。本願寺は本願寺のある大坂を中心とした地域だけではなく、広範な地域に勢力を有する存在でした。

 

 本願寺は日常的に京都の貴族や畿内の武将たちと音信を交わしたり、物のやり取りをしたりしていましたが、こうして地方にも力をもっていたことから、地方の武将たちとも音信を交わすことがありました。武将たちには正月や年末に年始の礼や歳暮として書状や物品が贈られたのをはじめ、婚姻の際には祝儀、葬儀の際には香典が贈られるなど、事あるごとに書状や物品が贈られました。

 

 音信を交わしたり、物のやり取りをしたりするのは、本願寺に限らず、貴族や武将たちの間でも行なわれたことですが、こうした書状や物品のやり取りには極めて重要な意味がありました。貴族や武将たちは書状や物品のやり取りを通じて、友好的な関係を築いたり、互いの連携を確認したりしたのです。書状の書き方や物の贈り方にも細かな決まりがあり、その決まりに従って書状が書かれ、物品が贈られました。

 

 武将たちは他の武将との友好的な関係を保つために書状や物品のやり取りに気を配りましたが、本願寺も書状や物品のやり取りにはかなり気を遣っています。武将たちに対する本願寺の態度は、一人の武将とだけ親密な関係を保つということではなく、武将たちそれぞれと親しくするという態度です。いずれかに片寄るのではなく、中立を保つというのが本願寺の基本的な態度でした。書状や物品のやりとりにも本願寺のこうした態度が表れています。武将が対立した際など、本願寺はどちらかの武将とだけ書状や物品のやり取りをするのではなく、双方の武将とやり取りをしました。

 

 武将たちの物品のやり取りで贈られるのは、扇、綿、紙といった品や、塩引、荒巻、串柿などの品、それに酒、太刀、馬などです。ほぼ決まった品が贈られるため、受け取った品を別の人に贈るということもありました。本願寺も贈られてきた品を別の人に贈っていますし、本願寺が贈った品が回りまわって、また本願寺に届けられたということもありました。証如上人もこれには笑ったと書きのこしています(『天文日記』)。

 

 本願寺は各地の武将たちと書状や物品のやり取りをしていますが、そのうちの一人として、本願寺は河内の遊佐長教という武将と、物品のやり取りや種々の交渉をしていました。遊佐長教は河内国の守護代であった人物です。遊佐氏は畠山氏の家臣の家柄で、代々、河内国の守護代をつとめました。長教は河内の北部、中部に大きな力をもっていました。本願寺はたびたび長教と交渉しましたが、この遊佐長教との交渉の際には、本願寺は興正寺を介して長教と交渉しています。

 

 興正寺を介した交渉としては、本願寺は河内の関所のことで長教と交渉しています。これは三河の本宗寺という寺の者の大坂から三河への下向に際し、途中の河内に関所があり、それが厄介なので、証如上人が関所を無事に通れるように長教に求めたというものです。この時には、証如上人は興正寺を介して長教に要望を申し入れていますし、長教の側も興正寺に対して要望を受けいれた旨の書状を出しています(『天文日記』)。

 

 興正寺が本願寺と遊佐長教との交渉を仲介しているのは、もともと興正寺と長教が親しい関係にあったことから、興正寺が本願寺と長教との仲介をしたものと思われます。遊佐氏は畠山氏に仕えましたが、興正寺はこの畠山氏とも関わりがあったようです。畠山氏は幕府の管領をつとめる家柄です。

 

 本願寺と各地の武将たちとの交渉としては、本願寺はしばしば武将たちに、武将の派遣した使者が派遣された地を安全に通過できるように取りはからうことを求められています。武将たちは本願寺に対し、末寺に現地での警護をしてもらうよう求めているのです。本願寺の末寺は各地にあるため、本願寺はいろいろな武将から、さまざまな地での警護を求められました。警護にあたったのは一家衆の寺などの有力な寺です。興正寺の門下では伊勢の柳堂阿弥陀寺、すなわちのちの法盛寺が警護を求められており、阿弥陀寺の有力さをうかがうことができます(『天文日記』)。

 

(熊野恒陽 記)

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