【二百六十五】随如上人 松平頼重の養子となって佛光寺へ

2024.01.24

 讃岐国の福岡村にあった興正寺の寺領は、松平頼重の尽力により、朱印地となりました。朱印地を領有することで興正寺の格式は高まりました。頼重は良尊上人による高松御坊の再建に協力しましたが、この再建は、准秀上人と良如上人の争いによって閉門し、教化活動を休止していた興正寺を復興させるための取り組みの一環としてなされたものでした。頼重は良尊上人が興正寺の住持となって以来、一貫して良尊上人を支援していたのです。頼重と良尊上人関係は、頼重が良尊上人を支え、良尊上人も頼重を頼るという関係でした。二人の関係はこののちも続くことになります。

 

 延宝二年(一六七四)十二月二日、良尊上人の弟である超秀師が佛光寺本山の第十九世住持である随庸上人の継嗣として佛光寺に入寺します。超秀師は入寺に先立って、十月に松平頼重の養子となっており、形式上、頼重の養子として佛光寺に入寺しました。

 

 讃岐守源英養子トシテ佛光寺御門跡相続(『華恩略系図』)

 

 頼重は龍雲軒源英と号しました。讃岐守源英とは頼重のことです。良尊上人と頼重の深い関係から、超秀師は頼重の養子となったのでした。養父となったということは、今後は頼重が超秀師の後見役をつとめるということです。超秀師を頼重の養子とするということは良尊上人が希望したものと思われます。良尊上人にとっては、頼重は親しく接するとともに、もっとも頼りとなる存在であったのです。

 

 超秀師は寛永十八年(一六四一)の生まれで、佛光寺に入寺した時には三十四歳でした。超秀師は良尊上人より十歳、年下の弟でした。一方、超秀師を継嗣として迎えた随庸上人は、超秀師が入寺した時、四十一歳でした。随庸上人は超秀師の兄である良尊上人より三歳、年下です。随庸上人には息男がいましたが、早世したため超秀師を継嗣に迎えたのでした。

 

 佛光寺に入寺する前、超秀師は頼重の養子となりましたが、佛光寺への入寺の際には、超秀師はさらに二条光平の猶子となっています。二条家は九条家や鷹司家などとともに公家の最高位の家格である摂関家の家柄です。この時の二条家の当主が光平でした。西本願寺の住持の継嗣は九条家、興正寺の住持の継嗣は鷹司家の当主の猶子となりましたが、佛光寺の住持の継嗣は二条家の当主の猶子となるのが慣例でした。

 

 その後、超秀師は延宝三年(一六七五)二月、天台宗の三門跡の一つである妙法院門跡で得度します。佛光寺の住持の継嗣が妙法院門跡で得度するのも、古くからの慣例です。超秀師はこの得度より六年前の寛文三年(一六六九)、二十九歳の時にすでに得度をしています。超秀師は准秀上人の子として西本願寺で得度しました。超秀というのもそれ以後に用いられた法名です。超秀師は西本願寺とは関わりをもたない佛光寺に入寺したことから、改めて住持の継嗣は妙法院門跡で得度するという佛光寺の慣例に従い、妙法院門跡で得度しているのです。妙法院門跡での得度後、超秀師は法名を随如、諱を堯庸と名乗りました。

 

 超秀師が得度すると、すぐに随庸上人は隠居し、住持の職を超秀師に譲ります。これによって、超秀師は佛光寺の第二十世の住持、随如上人となりました。興正寺住持の弟が佛光寺の住持となったのです。

 

 興正寺と佛光寺はもとは一つの寺であり、佛光寺の住持であった経豪上人が佛光寺を出て、本願寺の教団参入し、興正寺を建立したことで二つの寺に分かれます。以後、興正寺と佛光寺とは長く縁を絶ったままでした。そうした中、良如上人と争った准秀上人は、興正寺と佛光寺は元来は一つの寺で、興正寺は佛光寺から分かれた寺だということをいい出します。

 

 我等儀者、根本京都佛光寺ニ而御座候(『浄土真宗異義相論』)

 

 これでは佛光寺が正系で興正寺は傍系だということにもなりますが、准秀上人はこうした主張をすることで、興正寺は本願寺とは関係のない佛光寺の流れを汲む寺であり、西本願寺と興正寺とは、元来、本寺と末寺という関係にはないのだ、といおうとしたのです。佛光寺は独立した一派の本山であり、その姿は西本願寺との本末関係の解消をはかろうとする興正寺にとっては、まさに目指すべき姿でした。そして、実際に興正寺は西本願寺との対立を深めていくのに従って、逆に佛光寺との関係を強めていきます。良尊上人が弟の超秀師を佛光寺に入寺させたことには、西本願寺への反発という側面もあったのです。 

 

 (熊野恒陽 記)

 

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