【二百六十六】良尊上人の示寂 京都に葬られることを拒む

2024.02.26

 良尊上人の妻、妙超尼は延宝三年(一六七五)二月二十五日、三十一歳で亡くなりますが、この妙超尼が亡くなる少し前には良尊上人と妙超尼の間の子、二人が相次いで亡くなっていました。延宝三年の一月一日には良尊上人の次男の久丸が七歳で、二月二日には長男の岩丸が八歳で亡くなっているのです。良尊上人と妙超尼の間にはこの二人の子に次いで、長女の喜代姫、三男の為丸、次女の千代姫の合わせて五人の子がいましたが、このうち喜代姫、千代姫の二人の女子も早世しています。喜代姫は五月三日、千代姫は六月十四日に亡くなっているということが知られますが、二人が何年に亡くなったのかははっきりしません。こうして四人の子が幼くして亡くなり、自身も三十一歳という若さで亡くなっていることからするなら、妙超尼は、相当、体が弱かったのだと思います。

 

 上人と妙超尼の子供たちは五人のうち四人が幼いうちになくなっており、幼いうちに亡くならなかったのは三男の為丸だけでした。こうしたことから、この為丸が良尊上人の嫡子となります。しかし、この為丸も虚弱な体質で、そのためもしもの際を考え、為丸の従兄にあたる藤丸を為丸の連枝として迎えることになりました。

 

 今師始有三男二女、嫡男岩丸、二男久丸、三女喜代姫、五女千代姫、皆早世ス、但有四男為丸、存在スト云ヘトモ、虚弱ニシテ、恐クハ長寿スヘカラスト、即今師ノ連枝、深信院圓尊准海ノ四男ヲ養テ、為丸ノ連枝タラシム(『山科興正寺付法略系譜』)

 

 今師というのは良尊上人のことです。良尊上人には五人の子がいたが、そのうち四人が亡くなり、ただ為丸だけが亡くならなかったとあり、続けて、しかし、その為丸も虚弱であったので、良尊上人の弟の圓尊師の子を為丸の連枝として迎えたとあります。ここには為丸が虚弱であったと書かれていますが、これは母の妙超尼の体質を受け継いだものとみられ、ここからも妙超尼は体が弱かったということができると思います。

 

 為丸の連枝となった藤丸の父である圓尊師は熊本の延寿寺の月感の養子となり、一時期は延寿寺の住持職を継いでいた人です。圓尊師は月感が延寿寺を東本願寺の門下の寺にすることに決めたことから、月感と対立し、延寿寺を出ました。圓尊師は月感の娘と結婚しており、二人の間には男子もいました。その男子を寺の跡取りとして延寿寺にのこし、二人は寺を出たのでした。二人が延寿寺を出たのは寛文五年(一六六五)のことです。二人はそのまま京都の興正寺に向かい、その後は興正寺に住んでいました。

 

 藤丸が生まれたのは寛文十一年(一六七一)の二月二十八日のことです。一方の良尊上人の三男の為丸は寛文十二年(一六七二)の十月十二日の生まれです。藤丸の方が一歳、年上ということになります。それでも為丸が嫡子であることから、藤丸は為丸の弟として扱われました。

 

 興正寺の伝えでは、良尊上人は藤丸を伴って讃岐国に赴き、松平頼重に藤丸を会わせたのだといいます。

 

 相伝曰、今師遊讃州之日、随身藤丸、使藤丸面会於頼重卿、告知為二男之事(『山科興正寺付法略系譜』)

 

 良尊上人は藤丸とともに頼重に会い、藤丸を為丸の弟として迎えたのだと告げたのだとされます。良尊上人がもっとも頼りとしたのは頼重です。頼重には藤丸を養子として迎えたことを告げておかなくてはならなかったのです。良尊上人は延宝四年(一六七六)の十月に讃岐に赴いたことが知られています。藤丸を伴ったというのはこの延宝四年の讃岐への訪問の時ではないかと思われます。

 

 こうして良尊上人は相次いで、子供、そして妻を亡くしましたが、やがて自身も病となり、延宝八年(一六八〇)三月九日、亡くなります。五十歳でした。この時、嫡子の為丸は九歳、養子の藤丸は十歳でした。良尊上人の父である准秀上人の遺骨は摂津国の塚口御坊の境内地に埋葬され、母である祐秀尼の遺骨もまた塚口御坊の境内地に埋葬されていましたが、良尊上人は亡くなる際、自身の遺骨を父母の遺骨と並べて埋葬するようにといいのこしたと伝えられています。准秀上人は西本願寺と争い、京都に葬られることを拒んだことから、塚口御坊に葬られました。良尊上人も西本願寺のことを疎ましく思っていたため、塚口御坊に葬られることを希望したのです。

 

 (熊野恒陽 記)

 

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