【二百六十七】寂岷上人 その一 丸六年かけて得度する

2024.03.26

 良尊上人は延宝八年(一六八〇)の三月九日に亡くなりますが、亡くなる直前の三月六日、興正寺の住持の家の家督のことを述べた遺言書を京都所司代の戸田忠昌に送っています。

 

 三月六日、良尊上人より所司代戸田越前守、御家督ノ義、御遺言書被遣候、御使、片岡主膳(『華園略暦』)

 

 戸田越前守とは戸田忠昌のことです。戸田忠昌は三河国の田原藩、肥後国の富岡藩の藩主をつとめた大名で、延宝四年(一六七六)から天和元年(一六八一)まで京都所司代をつとめました。京都所司代をつとめたのち、戸田忠昌は幕府の老中に就任します。良尊上人の遺言書は興正寺の家臣である片岡主膳によって戸田忠昌のもとに届けられました。

 

 良尊上人と妻の妙超尼の間には、男女、五人の子がいましたが、そのうち四人は若齢のうちに亡くなっていました。そして、良尊上人の妻の妙超尼も良尊上人に先立ち、三十一歳という年齢で亡くなっています。遺されたのは三男の為丸だけでした。その為丸も虚弱な体質であったため、良尊上人は為丸の従兄の藤丸を為丸の連枝として迎えていました。藤丸は良尊上人の弟の圓尊師と月感の娘との間に生まれた子です。良尊上人が亡くなった時、為丸は九歳、連枝の藤丸は十歳です。死期を迎えた良尊上人がもっとも憂慮したのは興正寺の住持の家の家督のことでした。住持の家の家督の継承が滞りなく進むように願って、良尊上人は京都所司代の戸田忠昌に遺言書を送ったのでした。

 

 この後の天和二年(一六八二)の二月、興正寺の家臣たちは西本願寺に対し、為丸の得度を願い出ます。為丸は十一歳になっていました。しかし、この願い出は受け入れられませんでした。興正寺はこの後も西本願寺に為丸の得度のことを申し入れますが、為丸の得度は許されませんでした。為丸が得度することを許されたのは貞享三年(一六八六)のことです。為丸は十五歳になっていました。貞享三年は良尊上人の七回忌の年にあたります。その七回忌に間に合うように得度が許されたのでした。為丸の得度が行なわれたのは、三月の七回忌の前の貞享三年の二月十一日のことです。

 

 二月十一日、寂岷上人御得度、良尊上人遷化後、六年之間、童形、今年七年目也(『華園略暦』)

 

 得度後、為丸は寂岷の法名、由常の諱を名乗ります。寂岷上人は父の良尊上人が亡くなったあと、六年もの間、得度することもなく、稚児の姿である童形のまま過ごしたのでした。これはかなり異例なことです。この時の西本願寺の住持は寂如上人です。寂如上人は良如上人の子で、寛文二年(一六六二)に良如上人が亡くなったあと、十二歳で西本願寺の住持になっていました。為丸の母、妙超尼は良如上人の子であり、母親は違うものの、寂如上人の姉にあたります。寂如上人と為丸は近しい間柄にあるとはいえ、為丸の得度を許さなかったのです。寂如上人の父、良如上人と、為丸の祖父、准秀上人は激しく争いました。西本願寺が為丸の得度を認めなかったのは、物事を決めるのは本寺である西本願寺であり、末寺である興正寺は本寺の西本願寺に従わなければならないということを、興正寺の側に知らしめるためであったように思われます。

 

 二月十一日、興正寺寂岷得度、作法一変、又改院内等得度式(『大谷本願寺通紀』)

 

 二月二十一日の寂岷上人の得度の際の作法は、それまでの作法とは一変し、別の作法で行なわれました。そして、この寂岷上人の得度を契機として、以後、西本願寺の得度の作法は、この寂岷上人の得度の際に採用された作法で行なわれるようになっていきます。寂如上人は西本願寺の本山や、西本願寺の派内の制度を大きく改変していきますが、勤式の作法も大きく変えていきます。現在、東本願寺の報恩講では衆僧が上体を揺らしながら、独特な節で、和讃、念仏を称える、坂東曲といわれるものが勤められますが、これは東本願寺だけが行なう独自なものというのではなく、元来は西本願寺でも行なわれていたものです。この坂東曲を廃止したのも寂如上人です。江戸時代、西本願寺と東本願寺は互いに正統を主張し、反目しあっていました。西本願寺と東本願寺は、互いに相手との違いを強調する必要があったのです。

 

 得度に先だって、寂岷上人は鷹司兼煕の猶子となっています。寂岷上人の父、良尊上人は鷹司教平、次いでその子の鷹司房輔の猶子となっていました。鷹司房輔の子が鷹司兼煕です。

 

 (熊野恒陽 記)

 

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