【九十七】 「天然」 ~九州の真宗のはじまり~

2019.08.27

 裏書に興正寺門徒と書かれた絵像の方便法身尊像の下付は明応年間(1492~1500)にはじまります。興正寺門徒と書いた絵像の下付は、以後、増加していきますが、それとともに下付される地域もひろがっていきます。興正寺門徒と書いた絵像の下付はことに永正年間(1504~1521)から増えていきますが、そのころになると、下付された地は畿内やその近国をはじめ、北陸や、遠く九州にまでひろがっています。

 

 九州で絵像が下されているは豊後、豊前の地です。豊後国、豊前国には数幅の絵像が下されていますが、そのうちの一幅は豊後国大分郡高田庄別保村惣道場に下されています。この道場はのち専想寺という寺になります。道場を開いたのは天然という人物です。天然は九州の地に最初に真宗を伝えた人といわれています。

 

 専想寺の寺伝では、天然は周防の生まれだとされています。長じて長門で禅を修め、のち上洛して浄土の法門を学んだといいます。その後、天然は京都を離れ、周防、長門、豊前、豊後の各地で教えをひろめたとされます。それによって豊後の別保村に弟子ができ、その弟子に請われて別保村にとどまることになったのだといいます。こののち天然は再び上洛し、山科の蓮如上人を訪ねて弟子になったのだとされます。蓮如上人に会って天然は真宗の正義に触れたのだといいます。天然はこの後、数年を山科で過ごし、それから別保村に戻ったとされます。別保村に戻った天然は、以前、教化した人びとを再び教化し、真宗の正義を教えたのだといいます。こののち天然は弟子を連れ、再度、山科を訪ねたとされます。蓮如上人は天然の訪問を喜び、天然に名号を百幅授けたといいます。専想寺では天然が最初に山科を訪れたのは文明十四年(1482)、弟子を連れ再び山科を訪れたのは明応五年(1496)のことだとしています。文明十四年というのは、蓮教上人の本願寺参入が文明十三年ころのことであることから、それに関係づけているものと思われますが、それとともに専想寺では、天然は明応五年に再び山科を訪れて名号を百幅貰ったとしているのです。明応年間には興正寺門徒と書いた絵像の下付がはじまります。この伝えは無下に否定できるものではありません。

 

 専想寺の寺伝では、天然は各地に教えをひろめたとされていますが、現実の天然も説教や布教にすぐれていたようです。説教を談義といい、説教のもととなる題材を記した本を談義本といいますが、天然が所持していた談義本が何冊も伝えられています。天然はひろく諸宗の談義本を所持していましたが、真宗のものとしては『女人往生聞書』を所持していました。『女人往生聞書』は存覚上人が了源上人の求めに応じて著した書です。天然はこの書を文明三年(1471)に自ら書写して所持していました。

 

 天然は周防、長門、豊前、豊後に教えをひろめたとされていますが、専想寺の末寺もそれらの地域にひろがって存在しています。専想寺には三百箇寺ほどの末寺がありました。専想寺のいうところでは、専想寺の直末は十二箇寺であるとされています。その十二箇寺のさらなる末寺が三百箇寺ほどになり、それらが各地にひろがって存在しているのです。直末の十二箇寺はいずれも豊前、豊後にあります。その十二箇寺のうちでも豊前国下毛郡築地の長久寺、豊前国田川郡添田の法光寺は周防、長門にも末寺をかかえていました。周防、長門の専想寺下の寺はこの二つの寺の末寺です。教えの流れとしては、豊前、豊後から周防、長門に教えが伝わったということになります。

 

 築地の長久寺は天然の弟子である福島祐西という者が開いたとされていますが、この祐西は築地の豪族であったとも伝えられています。証如上人の『天文日記』には豊前の福島祐賢という人物が出ており、福島祐賢は福島祐西に関係する人とみられますが、証如上人はこの祐賢のことを現地の地頭だと記しています。祐西を豪族だとする長久寺の伝えは信じてもよく、長久寺が在地で力を有した寺であったことが分かります。

 

 専想寺は興正寺の末寺のなかでも端坊の末寺です。九州の興正寺の末寺には、端坊の末寺となっている寺が多くあります。九州に端坊の末寺が多いのは、端坊が早くからこの地との関係を深めていたからです。端坊は自らが地方に下って勧化をすることもありましたし、地方の坊主が興正寺に帰した際には、その取り次ぎをはかる手次ぎを行なうこともありました。端坊は勧化や手次ぎを行うなどして、早くから九州の地との関係を深めていたものとみられます。

 

(熊野恒陽 記)

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