智慧の念仏 脇屋好照(奈良県 光専寺)

2019.11.06

脇屋好照(奈良県 光専寺)

 

 阿弥陀様(法蔵菩薩)は「超世の願」を建てられました。『重誓偈』のはじめに「我建超世願」とあるのがそれです。

 

「世を超えた願い」とはどんな願いでしょう。

 

 現実生活の中での願いなら身近に感じますが、「世を超えた願い」は何か遠い世界のように感じます。生きているのは、今・此処(ここ)であり、それを飛び越えてどこかに理想世界を求めるなら、空しい人生と言わざるを得ません。しかしよく考えてみると、鏡がなければ我が顔を見ることが出来ないように、世を超える願いにふれなければ、私の真実の願いはわかりません。だから別の世界のことを言っているのではなく、この世を包み、見直し、苦悩を超える道を与えて下さるのが「超世の願」でありましょう。

 

 私たちはこの世の道理、世俗の論理により生活しています。だからその論理で行動し、また自己に納得させています。その論理ですべて解決するのであれば問題ないのですが、往々に行き詰まりを感じます。

 

 特に老・病・死という人間の根本問題は世俗の道理では納得できる答えは得られません。老病死はこの世の姿であるのに、歳をとりたくない、病気になりたくない、死にたくないという願望が私を支配します。その執着心(しゅうじゃくしん)・煩悩(ぼんのう)は、いかに自己の理屈や努力をもってしても根本的解決が出来ません。智慧昏(くら)き者の悲しさです。だから世俗を生きる人間の論理を超えた世界からの見直しが必要になります。

 

 阿弥陀様(法蔵菩薩)が「超世の願」を建てられた所以がそこに在ります。世俗を超えた願いでなければ真のいのちの救いにはなりません。超世の願は、世俗を生きるより場のない私のために建てられた願であり、「南無阿弥陀仏」の名号(名声/みょうしょう)として私に届けられるのです。智慧の念仏により世俗を見直していくのです。

 

円融至徳(えんにゅうしとく)の嘉号(かごう)は悪(あく)を転(てん)じて徳(とく)を成(な)す正智(しょうち)

 

と親鸞聖人は示されます。

 念仏は、悩み多き人生に真の意味を与えて下さる。

 

人間生活のすべてに味を持たせる というのが南無阿弥陀仏の働きである。(金子大栄師)

 

 超世の願に包まれて、今・此処を大切に有り難く生きていく智慧がお念仏であります。

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