時短社会 北岑大至(福井県 浄信寺)
2019.08.27
北岑大至(福井県 浄信寺)
現代人は忙しい。時短勤務に時短家電、時短家事となにかと「時短」がもてはやされます。「時間の短縮」がもてはやされる社会は、日常の煩わしさをそぎ落とし、スピードが求められている社会ということです。
元来、何事にも時間をかけてコツコツ積み上げていくことが大切だと教えられて育ってきた私にとって、時短はあまり肌に合いません。時短だといってそぎ落とされてしまった時間の中に、実は大事な何ものかが潜んでいるように思えてならないからです。
しかし、時短という時代の波は、思いに反して私を飲み込んできます。トイレの扉を開けると勝手に明かりが点く。時短です。便座を持ち上げる前に勝手に便座が開く。これも時短です。しばらく便座に腰を下ろしていると時短だといって暗闇になる。これは迷惑です。ゆっくりと便座に腰を下ろし自分を見つめる時間さえ与えてくれません。こちらが求めなくとも、向こうから時短を押し付けてくる時代。
私たちが時短を欲すれば、それに応じた便利な家電が生まれ、世の中のスピードは上がります。いまの「時短」社会はあまりにもスピードが速すぎる気がしてなりません。
2013年の真宗教団連合の法語カレンダーに掲載されていた言葉を思い出します。
世の中が便利になって 一番困っているのが 実は人間なんです。
出典:浅田正作『骨道を行く』
便利すぎる時短社会のあまりに早いスピードは、そのスピードについていけない者を生み出します。ついていけない者にとって、便利すぎる世の中は不便でしかありません。便利すぎる時短社会は、便利な時代だと喜ばれる反面、置いてきぼりをくらう人々が生まれてきてしまう社会でもあるのです。
便利すぎる世の中は、人の手を煩わすことなく一人でなんでもでき、煩わしい他者とのつながりをあまり必要としません。そのような人々のふれあいの場が少なくなってしまった社会は、相手の心を想像できずに、自分さえよければという世界を作り出してしまうかもしれません。
仏教では、私たちの生きている世界を示して、「五濁(五つの濁り)」があると教えてくれます。劫濁(時代の濁り)、見濁(自分勝手な見方という濁り)、煩悩濁(欲望が盛んになる濁り)、衆生濁(私たちの資質の低下という濁り)、命濁(いのちの価値の低下という濁り)です。この中の「劫濁(時代の濁り)」とは、まさしく便利すぎる時短社会に現れ出てきた濁りといえるのではないでしょうか。
時短社会に生きる私たちは、忙しいからといってお寺にお参りするのが煩わしいといいます。お念仏するのが煩わしいといいます。他人とつながるのが、またふれあうのが煩わしいといいます。けれども、忙しい速いスピードの中でそぎ落とされた煩わしさの中に、実は大事なものがあるような気がします。
真宗興正派では、親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年法要に向けて、「今こそお念仏―つなごうふれあいの輪」という教化スローガンを掲げました。
現代人の私たちにとっては、煩わしいものだらけのスローガンです。しかし、便利すぎる時短社会の今だからこそ、スピードを落とし、あるいは立ち止まって、そぎ落とされていた煩わしいものと向き合ってみたいと思うのです。
煩わしいと思いながら、お寺に足を運んでみてはどうでしょうか。お念仏をしてみてはどうでしょうか。そんな願いがこのスローガンには込められているのです。