【百七】 「大坂寺内」 ~寺内町には特権があった~

2019.08.27

 山科本願寺の焼失後、本願寺伝来の親鸞聖人御影は大坂の坊舎に移され、その後は大坂の坊舎が本願寺になります。御影が移されたのは天文二年(1533)七月二十五日のことです。

 

 その後、御影は天文二年の十一月二十一日になって、御堂の本尊の脇へと移されます。

 

開山御影、御堂北之押板ヘ被奉移候、押板ヲ西ヘヒロゲラレ候(『私心記』)

 

 大坂本願寺は、もとからあった坊舎を本願寺としたものであり、御堂も一つしかありませんでした。堂は東向きに建っていました。内陣も中央に須弥壇が置かれるという形式ではなく、奥に押板といわれる段を設け、そこに本尊や御影を安置するという形式です。押板は書院造りの部屋飾りとしてとり入れられたもので、この押板がいまの床の間になっていきます。

 

 御影は本尊の北側の押板に移されたとあります。そして、御影を安置するため押板を西側にひろげたとも書かれています。押板を奥にひろげたのです。

 

 十一月二十一日に御影を移しているのは報恩講に合わせてのものです。本願寺の報恩講はこの天文二年から大坂で行なわれるようになります。天文二年の報恩講には大群衆が詰めかけたといいます(『私心記』)。

 

 大坂の坊舎は、現在、大阪城がある場所に建っていました。坊舎を中心に町場が形成され、寺内町として栄えていました。本願寺が大坂に移ったころには、大坂の寺内には、西町、北町、南町屋、北町屋、清水町、新屋敷といった、六つの町がありました。大坂の坊舎が本願寺となってからは、一層、人びとが大坂に集まるようになり、町の数も増えていきます。天文五年(1536)、大坂寺内の西町、北町で火事でありましたが、この時の火事では、二つの町で百四、五十軒の家屋が焼けたという記録がのこされています(『天文日記』)。これからするなら、天文五年の段階で、六つの町で数百軒の家屋があったということになります。

 

 本願寺が寺内町や建造物の整備を進めるのは、天文四年(1535)十一月の細川晴元との和睦の成立後のことです。晴元との戦いは御影が大坂に移されたのちも続きました。さすがに交戦中は寺内町や建造物の整備はできません。

 

 和睦の成立後、本願寺はまず寺内町の整備を進めます。防御のために堀を掘り、土塁が築かれます。掘は交戦中にも掘られていましたが、和睦ののちにも掘られていきます。次いで、天文八年(1539)、本願寺は寺内町に隣接する地を買得して、寺域をひろげます。

 

 その後、天文十一年(1542)に阿弥陀堂となる御堂が完成しました。阿弥陀堂には、あらたに造られた阿弥陀如来像が安置されました。阿弥陀堂が完成したことにより、従来の御堂は御影堂となります。

 

 これにともなって、御影堂の方も改修されています。内陣全体を奥にひろげており、この時に中央に須弥壇を置き、後ろに後門を設ける形式の内陣になったのだと考えられています。御影堂の内陣が完成するのは天文十二年(1543)のことです。次いで、綱所、寝殿、阿弥陀堂門などが建てられます。綱所は雑務を行なう所であり、寝殿は接客などを行なう所です。

 

 本願寺はこうして寺内町や建造物の整備を進めるとともに、種々の特権の獲得にもつとめています。

 

 本願寺はまず大坂の寺内町にかけられた半済を免除させることに成功します。半済は守護が課してくる税の一つです。課税を免除されるのですから、経済的には有利なことです。本願寺は交渉により、半済免除の特権を得ました。次いで、本願寺は諸公事を免許される特権を得ています。諸公事は年貢以外のいろいろな税のことです。さらに、本願寺は大坂寺内に徳政令が適用されない権利を得ています。徳政は金銭の貸し借りによる、債権、債務の関係を破棄することです。当時、徳政令はしばしば出されました。徳政は金銭を借りている人には得なことですが、貸している側には損なことです。それに経済的にも大きな混乱が生まれます。徳政は安定的な経済活動のためには妨げになりました。寺内町には商人や裕福な者が多く、したがって、金銭を貸している側の人が多くいました。徳政令の適用の除外は住人の保護のためにも必要なことでした。

 

 これらの特権により、大坂の寺内町では他の町より有利に暮らすことができました。そのため住人も増えました。大坂の寺内町は大いに繁栄しましたが、その繁栄は大坂の寺内町には特権があったということを一つの要因として、もたらされたのです。

 

(熊野恒陽 記)

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