【百十八】 「証秀上人」 ~蓮秀上人がのこした遺言~
2019.08.27
蓮秀上人が亡くなった後に興正寺を継ぐのは証秀上人です。証秀上人は蓮秀上人の息男です。証秀上人は興正寺の第十六世とされています。証秀上人は天文四年(1535)の生まれです。証秀上人が生まれたのは蓮秀上人が五十四歳の時です。蓮秀上人の生年については二つの説があり、別の説に従えば、蓮秀上人が五十五歳の時に生まれたということになります。天文二十一年(1552)七月十日、蓮秀上人が亡くなった時には証秀上人は十八歳でした。
証秀上人が得度をするのは天文十四年(1545)一月二十八日、証秀上人が十一歳の時です。証秀の証は証如上人の証の字をとったもので、得度も本願寺で行なわれました。
得度以後は、証秀上人も本願寺で行なわれていた行事に参加するようになります。次の興正寺の住持として遇されるようになったのですが、その矢先の天文十四年九月一日、証秀上人の母が亡くなります。証秀上人の母は光善寺兼珍の娘で、法名を妙恵といいました。妙恵尼は三十三歳で亡くなっています。
この妙恵尼は、証秀上人の父、蓮秀上人の二人目の妻です。蓮秀上人は、最初、神祇伯中将資氏王の娘、妙賢尼と結婚しましたが、妙賢尼は結婚から二十二年後に亡くなります。妙賢尼が亡くなった後に結婚したのが妙恵尼です。蓮秀上人には蓮秀上人よりも先に亡くなった実秀上人という息男がいましたが、この実秀上人は妙賢尼の子です。実秀上人と証秀上人は異母兄弟ということになります。
証秀上人の興正寺の後継者としての活動は、妙恵尼が亡くなった後も変わらず続けられていきます。得度したのは十一歳の時ですが、成長とともに役割も増していき、活動も年ごとにより活発なものとなっていきました。そして、そうした活動が続くなか、今度は父である蓮秀上人が亡くなったのでした。
蓮秀上人の葬礼は七月十三日に行なわれましたが、その後の八月二十八日、本願寺で催された斎に興正寺の門下の者たちが集まっています。本願寺では十一月二十八日の親鸞聖人の忌日に合わせ、毎月、二十八日に勤行が行なわれましたが、勤行とともに斎も催されていました。二十八日の斎は月ごとに経費を負担する寺や人が決まっており、八月二十八日の斎は興正寺門徒が経費を負担しました。経費を負担する者を頭人といいますが、頭人は経費を負担するだけではなく、斎にも参加しました。このため興正寺の門下の者たちが集まったのです。斎には証如上人も参加しています。
斎、相伴自頭人卅七人[興正寺下]来
証如上人の『天文日記』には、斎に頭人として興正寺門下の者が三十七人来たと書かれています。こうして門下の者が集まったのを機に、この日、証如上人、興正寺門下の者は、証秀上人に対しても蓮秀上人に対するのと同様に門下の者が協力するということが、蓮秀上人の生前の希望であったことを確認しています。
頭人衆於湯所以両使興正寺蓮秀被申置、刑部卿事門徒ニ不相替可令馳走之通申出了(『天文日記』)
刑部卿とあるのが、証秀上人のことです。馳走とは奔走するということであり、証秀上人に対しても変わることなく奔走するよう、蓮秀上人がいいのこした、と述べられています。証秀上人は蓮秀上人が五十歳を過ぎてから生まれた子であり、証秀上人への門下の協力は蓮秀上人が切望したものであったのだと思います。
こののちの九月五日には、証秀上人が経費を負担して、本願寺で斎を振る舞っています。
為斎於興正寺蓮秀逝去之志、刑部卿調備也、仍坊中食之(『天文日記』)
蓮秀上人の逝去の志として斎を調えたとあります。この時には、証如上人をはじめ、本願寺の一家衆と本願寺門下の坊主、それに証秀上人と興正寺門下の者たちが膳を食しました。興正寺門下の者は二十五人来たと書かれています。斎ののち勤行が行なわれますが、この勤行の終了後、証秀上人は証如上人のもとに人を遣わして蓮秀上人の遺品を贈っています。
証秀上人は鞍、長刀、小屏風といった品を贈りましたが、屏風には、花恩院へ書き与えると書かれていたため証如上人は屏風を返しています。花恩院は興正寺住持の院号です。証秀上人は証如上人以外にも、証如上人の子であるのちの顕如上人や、本願寺の住持の一族にも蓮秀上人の遺品を贈っています。遺品は蓮秀上人の遺言によって贈られたもので、贈られる品物も人ごとにすでに決められていました。
(熊野恒陽 記)