【百二十一】 「顕如上人の得度」 ~証如上人の葬送~

2019.08.27

 本願寺の証如上人は天文二十三年(1554)八月十三日に亡くなります。証如上人は前年の夏ころに体調を崩し、そのまま回復することなく亡くなりました。亡くなる十日ほど前からはことに容態も悪くなっていましたが、いよいよ死期のせまった八月十二日となって、証如上人は息男の顕如上人を得度させています。証如上人には男子は一人しかおらず、顕如上人が証如上人の後継者となることは、当初から決まっていました。この時、顕如上人は十二歳です。

 

 本願寺の住持職を継ぐ者の得度は、それまで、代々、青蓮院で行なわれていましたが、この時は証如上人の死期がせまっているという特別な事情から、本願寺で行なわれました。得度が行なわれたのは本願寺の亭(ちん)です。亭は本願寺を訪れた客の接待や、各種の行事が行なわれる場です。亭の押板に親鸞聖人の等身の御影が掛けられ、その前で得度が行なわれました。得度では、病をおして証如上人が息男の顕如上人の頭に剃刀を当てました。この後、御影堂で勤行があり、顕如上人は北側の上座、すなわち住持の座る席に着座し、勤行が行なわれました。顕如上人の法名顕如は、この日、証如上人から授けられたものです。

 

 この顕如上人の得度の翌日に証如上人は亡くなります。午後三時ころから、脈、呼吸が乱れ、午後四時ころに亡くなりました。亡くなる際、証如上人は顕如上人に、今後は証如上人の母であり、顕如上人の祖母にあたる慶寿院を頼るようにといいのこしています。

 

 証如上人は亭で亡くなっており、遺体はそのまま亭に安置されました。頭を北にし、顔を西に向けて安置しましたが、十三日の夜となって、遺体を動かし、助(じょ)老(ろう)という脇息に似た台にもたれかけさせて、座るような姿勢にしました。門徒の人びとが遺体を拝するのにそなえ、そうした格好にしました。

 

起コシマイラセ助老ヲツカセ申サレ御門徒ノ面々ニ拝セ被申(『信受院殿記御葬送中陰事』)

 

 この夜、本願寺に訪れた門徒たちは座った姿の証如上人を拝したことになります。

 

 証如上人の葬送は八月二十二日に行なわれました。遺体を納めた棺を輿に載せ、本願寺から火屋へと送りました。棺には、名号が、中の行を高く、脇を低くして、三行、書かれましたが、これは実(じつ)従(じゅう)が顕如上人の手をとって書いたものです。実従は蓮如上人の子であり、本願寺住持一族の長老です。

 

 骨揚げも二十二日に行なわれ、顕如上人はじめ本願寺の一家衆が骨を拾いました。拾った骨は、一旦、御影堂の親鸞聖人の御影の前に置かれ、その後、亭へと移されました。亭の押板には証如上人の御影が掛けられ、その前には三具足が置かれました。中陰の間はここで勤行が行なわれます。

 

 葬送の翌日の八月二十三日、慶寿院は、この日以降は顕如上人を上様と呼ぶようにと命じています(『信受院殿記御葬送中陰事』)。上様は本願寺住持に対する尊称です。顕如上人も上様と呼ばれる身になったのですが、それを命じているのは慶寿院です。慶寿院が大きな力をもっていたことがうかがえます。

 

 この慶寿院は大きな力をもっていましたが、力をふるうだけではなく、真宗の教えにも詳しい人でした。慶寿院は実従から述べ書きの『教行信証』を学んでいますし、『教行信証』の述べ書き本を写してもいます。なすべききことはなしていたのであり、だからこそ人びとも慶寿院に従ったのだといえます。

 

 中陰の間は、斎、非時が振る舞われましたが、これらの斎、非時は、証如上人と縁のある人びとが、交代で費用を負担して振る舞いました。八月二十三日の斎は下間丹後、非時は殿原衆、二十四日の斎は下間駿河、下間左衛門太夫、非時は山科四日講、二十五日の斎は慶寿院、非時は江州北郡惣坊主衆中が振る舞っており、二十六日の斎は興正寺が振る舞っています。二十八日の斎も興正寺門下衆が振る舞っていますが、これは興正寺門下衆が、毎年、八月二十八日の親鸞聖人の忌日の勤行にともなう斎を振る舞っていることから、この日もそのまま興正寺門下衆が振る舞ったものです。

 

 証如上人の四十九日の勤行は十月一日に行なわれました。その日の晩、御影堂の須弥壇の中に証如上人の遺骨が納められています。

 

 証如上人は興正寺の蓮秀上人、証秀上人と関わりがありましたが、興正寺と証如上人との関わりもまさにこれで終わりとなりました。証秀上人は、以後、跡を継いだ顕如上人と関わっていきます。

 

(熊野恒陽 記)

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