【百二十三】 「富田林寺内 その一」 ~礼銭を支払って町を開いた
2019.08.27
証秀上人が興正寺を継いでから六年ほどをへた、永禄年間のはじめころ、富田林の寺内町が開かれます。
富田林の寺内町がいつ開かれたのかは、はっきりせず、永禄初年のことであることしか分かっていません。富田林寺内町の開かれた年についてはさまざまにいわれています。伝承では、永禄三年(1560)に町の用地を取得し、翌永禄四年(1561)に町を造成したとされていますが、寺内町の開かれた年については別の伝承もあり、そちらでは永禄二年(1559)に町を開いたとされています。このほか、こうした伝承ではなく、いろいろな事柄の検討から、富田林寺内町が開かれたのを永禄元年(1558)とする見解も示されています。永禄年間のはじめということでは一致していますが、開かれたとされる年はまちまちです。
富田林寺内町が永禄初年に開かれたことは間違いなく、このうちのいずれかの年に開かれたことになりますが、ではそれはいつかとなると、明白な根拠がないため、正確には知ることができません。富田林の寺内町が開かれた年についてはさまざまにいわれますが、確実なこととしていえるは、永禄初年に開かれたということだけです。永禄二年十二月、本願寺の顕如上人は門跡となります。本願寺の力が増大するととともに本願寺の社会的な地位が高まったことから顕如上人は門跡となりましたが、富田林寺内町は、本願寺の力が強まり、顕如上人が門跡となったのとほぼ同時期に開かれたということになります。
富田林の寺内町が開かれた際は、荒れた芝地を開発して町場を造ったといわれています。
河内国石川郡富田林之儀者、往古荒芝地ニテ御座候処…永禄三庚申年…興正寺御門跡十四世証秀上人、右芝地百貫文礼銭ニ差上御坊御境内ニ申請、則チ御証文御座候、同四辛酉年、右芝地開発之儀、中野村、新堂村、毛人谷村、山中田村、右四ヶ村庄屋株之者壱村ヨリ弐人宛都合八人罷出、芝地開発、興正寺御門跡兼帯所御堂建立、其外畑屋敷町割等仕、富田林ト改、右八人年寄役ニ被相極メ役義相勤申候(『興正寺御門跡兼帯所由緒書抜』)
河内国石川郡の富田林について、富田林の地は古くは荒れた芝地であったのだと述べられています。その土地を証秀上人が百貫文を差し出して境内地とし、御堂を建立するとともに、町割りをして町場を造ったのだといいます。
ここでは証秀上人を興正寺の第十四世としていますが、これは現在の歴代の数え方と違っています。現在の興正寺では、証秀上人は第十六世とされています。興正寺では、現在、第九世を了明尼公、第十三世を光教上人としていますが、この二人が歴代に加えられたのは明治時代のことです。江戸時代にはこの二人は歴代には数えられていませんでした。了明尼公と光教上人を加えれば証秀上人は第十六世となり、二人を加えなければ第十四世となります。証秀上人を第十四世とするのは江戸時代の数え方です。
町の用地の取得については、証秀上人が百貫文を差し出したとし、その証文があると述べられていますが、この証文は現に興正寺に伝えられています。興正寺に蔵されているのは二通の請取状です。このうち一通は、松帯という人物から小伊という人物に宛てた請取状で、小伊から料足として二十貫文が届けられたのに対し、松帯がそれを請けとったとする内容のものです。もう一通は、松帯刀左衛門尉から富田林の坊に宛てられた請取状で、富田林の坊から五貫文が届けられたことに対し、五貫文を請けとったことと、上様への礼銭百貫文はこの五貫文で全て届けられたということを確認する内容のものとなっています。松帯と松帯刀左衛門尉は花押が一致しており、同一の人物です。
上様ヘ御礼銭、百貫文の分、此五貫文にてすミ申候、右如件
松帯刀左衛門尉
永禄三(五)年五月十一日久(花押) 石川とんた林之 御ほうへまいる(「興正寺文書」)
百貫文の礼銭は確かに支払われているのです。礼銭は松帯刀左衛門尉を介し上様に納められたことになりますが、礼銭を請けとったこの上様は、松帯刀左衛門尉が河内国の守護、畠山高政の被官であるとみられることから、松帯刀左衛門尉の主人である畠山高政のことであろうと考えられています。
(熊野恒陽 記)