【百二十五】 「高松御坊」 ~もともと今の地のすぐそばにあった~

2019.08.27

 富田林の寺内町は証秀上人の代に開かれ、それとともに現在の興正寺富田林別院となる富田林の坊も開かれましたが、興正寺の別院では、香川県の高松別院も証秀上人の代に開かれたと伝えられています。

 

 永禄ノ初、今師讃州ノ海岸ニ行化シ玉ヒ一宇ヲ草創シ玉フ

 

 これは興正寺の『興正寺付法略系譜』という書のなかの証秀上人の事績に触れた箇所にみられる一節です。証秀上人が永禄年間(1558~70)のはじめに讃岐の海岸に赴き、一宇を草創したと述べられています。この一宇は現在の高松別院のことを指しています。

 

 『興正寺付法略系譜』は江戸時代に著された書で、興正寺の歴代の事績をまとめたものです。事績といっても、それらは正確なことのみを記したものではなく、いい伝えや憶測をまじえて記されたものです。高松別院の建立にあたっては証秀上人が讃岐に赴いて建立したと述べられていますが、この証秀上人が讃岐に赴いたというも憶測によって書かれたものとみられます。これを除いた永禄初年、証秀上人の代に現在の高松別院が開かれたというのが本来の伝えなのだと思います。

 

 いい伝えではなく、文献によって確実に現在の高松別院の存在が知られるようになるのは、天正十一年(1583)二月十八日に書かれた文書からです。これは讃岐に力を有した十河存保が現在の高松別院となる坊の坊主衆に対して出した文書で、坊とその寺内を四覚寺原に再興することを認めるという内容のものです。

 

 野原野潟之寺内、池戸之内四覚寺原へ引移、可有再興之由、得其意候、然上者課役、諸公事可令免除者也、仍如件(「興正寺文書」)

 

 野原の野(の)潟(かた)の寺内を池戸の四覚寺原に移して再興することを認めると書かれています。坊はもともと野原荘野潟の地にあったのであって、それを再興するというのです。坊があった野潟は、現在、高松別院がある高松市御坊町のすぐ東側の地です。いまは使われていない町名ですが、かつて御坊町の東側の地は野方(のかた)町の名で呼ばれていました。この野方は野原荘の野潟に由来する地名です。高松は高松城の城下町として発展した町ですが、この高松城と城下町は野原荘を開いて造られたものであり、もとの城下町の区域はほぼ野原荘であった地に相当しています。野原荘の野潟が高松城下の野方町となったのです。高松別院となるもとの坊はこの野方町となる地にありました。いまの高松別院の所在地からまさに至近の距離です。この坊は天正十一年以前にすでにあったのですから、永禄年間のはじめころからあったとみてよいと思います。

 

 坊の再興を認められた池戸の四覚寺原は現在の木田郡三木町の大字井上から大字池戸にかけての地です。十川存保は文書のなか、その坊について、坊の境内地を寺内と表記し、その寺内への加役や諸公事を免除するといっています。寺内は寺内町の寺内であり、加役や諸公事を免除するとはもろもろの税を免除するということです。ここからするなら、坊の境内地には俗人の家屋もあって、いうなれば小規模な寺内町をかたち作っていたものと考えられます。野潟にあった時から境内地には俗人の家屋があったのであり、四覚寺原でもそうしたかたちでの再興を認められているのです。

 

 四覚寺原での再興がどうなったのかは明らかではありませんが、その後、天正十七年(1589)となって、この坊は香東郡の楠川のほとりの地に移ります。天正十七年十一月四日、讃岐を支配した生駒親正から楠川の河口部東側の地を寺領として寄進され、それにともなって坊も移ったのです。親正は寺領の寄進状にこの楠川沿いの坊のことを「楠川御坊」と記しています(「興正寺文書」)。ここにいう楠川はいまの御坊川のことだと思われます。楠川御坊のあったのは、現在は高松市松島町となっているもとの松島の地です。

 

 こののち慶長十九年(1614)となって、坊は楠川沿いから高松城下へと移ります。現在地の高松市御坊町の地です。城主生駒正俊の命によるものです。楠川沿いの寺領は正俊からそのまま興正寺の寺領として安堵されました。楠川沿いの寺領は、その後、寛文八年(1686)に近くの地と替えられ、それ以後はそちらが興正寺の寺領となります。新しい寺領があったのは現在の高松市上福岡町、かつての福岡村です。

 

 こうしてみてみると、高松別院となる坊は、土地を与えられるなど、つねに時の支配者から優遇されていたことが分かります。支配者側にとってもこの坊は優遇しなければならない坊だったのです。

 

(熊野恒陽 記)

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