【十三】「渋谷佛光寺」 ~なぜ寺号を佛光寺と改めたのか~
2019.08.26
山科にあった興正寺は庶民の信仰を集めて急速に発展をとげましたが、やがて興正寺は山科から京都東山の渋谷(しぶたに)の地に寺基を移します。『存覚一期記』によると、寺基の移転は嘉暦三年(1328)前後のことで、そのころ渋谷へと移ったようです。寺基の移転という大きな出来事の割には、はっきりとした年次が分からずにあいまいですが、このことを記録する『存覚一期記』の記述が明確でなく、はたしてそれが嘉暦三年なのかその前後の年なのかがはっきりとしません。
興正寺がいつ渋谷へ移転したのかは江戸時代にもいろいろと論じられていますが、それをみても諸説さまざまで、統一した見解はみられません。すでに移転の年を判断する明白な根拠を失っていたために、諸説さまざまに説かれたのだと思います。移転の年は興正寺でもはやくから分からなくなっていたのでしょう。
渋谷への移転が嘉暦三年の前後いずれの年であったにしても、了源上人が興正寺建立の勧進をはじめてから移転までわずか十年ほどにすぎません。建物が建つまでの期間をのぞくと、実際に興正寺が山科にあったのはわずかに六、七年の間であったことなります。移転までの期間があまりに短すぎるようにも思えますが、逆に短いからこそ移転しやすかったのかもしれません。
佛光寺と寺号を改めたのは渋谷に移ってからで、移転に際して寺号も改めたものとみられます。移転から百五十年あまりのちに書かれた文書には、佛光寺とは山科興正寺を渋谷の地に移し号するようになった寺号だと記されています。
当寺ノ元記ヲタツヌルニ、山科興正寺ヲ、イマノ比叡渋谷竹中ノ在所ニ引移シテ一宇ヲ建立シ、本尊ノ告勅(ごうちょく)ニマカセテ佛光寺トコレヲ改ム(文明十五年佛光寺造立奉加帳)
「イマノ比叡渋谷竹中」とあるのは佛光寺の所在地を指す地名で、要は、山科興正寺を渋谷の地に引き移して佛光寺と改めたと述べられています。本尊のお告げによって寺号を改めたともいっていますが、これは文書が書かれた文明十五年(1483)には、そのように理解されていたということで、逆にいえば、文明年間の佛光寺では、本尊のお告げによって佛光寺という寺号がついたのだと説明していたことを示しています。現在は、本尊が光りかがやいたという奇瑞によって佛光寺との寺号に改められたと説明されますが、ふるくは別の説明のしかたもされていたようです。
実際のところは佛光寺との寺号は存覚上人がつけた もので、『存覚一期記』に存覚上人が興正寺の寺号を佛光寺に改めたことが明記されています。存覚上人は興正寺が渋谷へと移って佛光寺となった後にも了源上人の援助をうけており、引きつづき佛光寺に住んでいました。名づけ親になってもらうにはもっともふさわしい人で、了源上人と相談して佛光寺との寺号をつけたものだと思います。興正寺の寺号は聖徳太子にちなむものですが、佛光寺とは阿弥陀仏の光の意で、おそらくは当時さかんに用いられていた光明本尊という絵像を念頭につけられた寺号ではないかとみられます。
移転に際して寺号を改めたにしても、十年にも満たないうちに興正寺との寺号が改められているわけで、いささか不思議な感じもします。興正寺ではこれを本尊の奇瑞によるとしますが、『反古(ほごの)裏書(うらがき)』という戦国時代の本願寺系の著述ではちがった説明がされています。
(興正寺とは)空性坊了源覚如上人に参入のとき…立られし一寺の称号なり。 佛光寺とは当家退散のゝち渋谷にをひて号せられし名なり
興正寺とは了源上人が本願寺の覚如上人の門下であったときに立てた寺の名であり、佛光寺とは本願寺門下を離れたのちの名だといっています。いいかえれば、了源上人が覚如上人との縁を断ち、それが原因で寺号を改めたということになります。のちの江戸時代にも本願寺はこの主張をくり返していて、了源上人は覚如上人の弟子で興正寺の寺号も覚如上人が与えたものであり、その後破門したから興正寺の寺号を取り上げたのだといっていました。弟子であるとか、寺号を与えたというのは江戸時代の感覚でのとらえ方ですが、主張の基本となる了源上人が覚如上人と縁を断っていたということは事実として認めてよいように思います。
当初、了源上人は覚如上人に頼んで興正寺との寺号の名づけ親になってもらっていましたから、覚如上人との縁を断った後は興正寺の寺号を用いづらくなり、それで移転を契機に佛光寺と寺号を改めたということなのだと思います。
(熊野恒陽 記)