【百三十】 「信長との戦い その一」 ~戦いのはじまり~

2019.08.27

 永禄十一年(1568)九月、織田信長は美濃国から京都に入ります。信長はすでに尾張国、美濃国を平定していました。信長は、途中、近江国の六角氏を制圧して京都に入りました。

 

 上京する際、信長は足利義昭を伴って京都に向かっています。足利義昭は将軍家の嫡流ですが、政争によって命を狙われていた人物です。上京後、信長はこの義昭を将軍に擁立します。信長の目標は天下統一です。信長は義昭を将軍にすることで、将軍の権威を利用しながら、今後の戦いをすすめようとしたのです。

 

 本願寺はこの織田信長と戦います。本願寺と信長の戦いは足かけ十一年に及びます。戦いの場も大坂だけではなく、東海地域や北陸地域、そして、瀬戸内の諸地域とひろがっていきます。本願寺を援助するための懇志は国内の各地から届けられており、本願寺と信長の戦いはまさに国中を巻き込んだ戦いとなりました。

 

 本願寺と信長の戦いは元亀元年(1570)九月十二日の夜にはじまります。この年の八月から信長は摂津国の野田、福島に陣を張っていた三好三人衆を攻めていました。野田、福島は大坂のすぐ近くの地です。三人衆とは三好長逸、三好政康、石成友通の三人です。三人は阿波国を本拠地とする三好氏の一族です。永禄十一年、信長が京都に入るまではこの三好三人衆が畿内に力をふるっていました。信長はその勢力を一掃するために、野田、福島の三人衆を攻めていたのです。九月十二日夜、この野田、福島の陣を攻める信長勢に対し、本願寺勢が出兵します。ここから本願寺と信長との戦いがはじまります。

 

 この戦いは突然にはじまったものではありません。本願寺と信長はそれ以前から対立関係にありました。顕如上人が下した消息によれば、信長は本願寺に対して難題を申しかけてきて、言うことを聞かないのならば本願寺を破却すると告げてきたのだといいます。信長が求めた難題がどういった内容のものなのかははっきりしませんが、一説では、信長は本願寺のある大坂の地の明け渡しを要求してきたともいわれています。こうした信長の要求に対し、顕如上人は元亀元年の八月の段階で信長と戦うことを決意していました。

 

 十二日の夜にはじまった戦いは、十日ほどでひとまず終息します。本願寺勢と信長勢は十三日から大坂の周辺で攻防を繰りひろげましたが、二十三日となって信長勢は野田、福島の囲いをといて撤退したのです。

 

 信長が退いたのは、近江国の浅井長政、越前国の朝倉義景が蜂起したためです。蜂起した浅井、朝倉の両勢は連合して近江の宇佐山城を攻めました。宇佐山城は現在の大津市にあった山城で、織田信長の近江における本拠地となったところです。両勢の攻撃により、城を守っていた信長の重臣森可成、信長の弟織田信治は敗死します。信長はこうした近江の状況を知り、急遽、近江に向かいました。

 

 森可成、織田信治を討った浅井、朝倉の両勢は勢いをえて、坂本に進出します。比叡山も浅井氏、朝倉氏に味方し、両勢は比叡山に陣を張りました。対して、信長は下坂本へと進み、信長勢と、浅井勢、朝倉勢、比叡山勢とはここで対峙します。

 

 浅井、朝倉の両氏は本願寺と連携関係にあり、本願寺はかねてから両氏と連絡を取り合っていました。両氏の挙兵は、まさに大坂で戦っていた信長の背後をつくというかたちになっています。浅井氏、朝倉氏だけではなく、近江では一向一揆も蜂起しています。翌十月、一揆勢は信長の本拠地である美濃国と近江国との通路をふさぐ一方、神埼郡の建部郷にこもって信長勢に敵対しました。次いで、十一月には伊勢国の長島でも一向一揆が蜂起します。

 

 近江での戦いは信長勢に不利なものとなりました。そこで信長は浅井、朝倉の両氏と和睦することにしました。十一月には浅井氏、十二月には朝倉氏と和睦します。和睦したことで、浅井勢、朝倉勢、それに織田勢は陣をとき、撤退します。

 

 翌元亀二年(1571)、和睦は破られ、再度、戦いがはじまります。五月、浅井勢と信長勢が戦います。浅井勢には一揆勢も味方しました。この合戦では信長方が勝ちました。続いて、信長は伊勢長島の一向一揆の制圧に向かいましたが、こちらは信長勢が劣勢となり、信長勢は退いています。九月、信長は近江の金森の一揆を制圧し、次いで、敵対していた比叡山を攻撃します。いわゆる比叡山の焼き討ちです。これにより比叡山の堂宇はすべて焼け落ちます。

 

(熊野恒陽 記)

PAGETOP