【百三十一】 「信長との戦い その二」 ~戦いのひろがりと続く敗北~
2019.08.27
摂津の野田、福島に陣取る三好三人衆を攻める織田信長勢を攻撃したことではじまる本願寺と信長との戦いは、以後、近江、伊勢へと戦闘の場をひろげていきます。本願寺は浅井長政、浅倉義景と連携し信長と戦いましたが、この浅井氏、朝倉氏とともに本願寺が連携していたのが甲斐国を本拠地とする武田信玄です。このころの信玄は甲斐国に加え、信濃国や駿河国などをも支配しており、その勢力は強大なものでした。信玄の妻と顕如上人の妻の如春尼は姉妹であり、信玄と本願寺とは以前から同盟関係にありました。
武田信玄は越後国の長尾景虎と争っていましたが、この景虎の方は真宗に厳しい態度をとり、越後での真宗の信仰を禁止していました。長尾景虎は改名前の上杉謙信のことです。本願寺と信長との戦いの際も、当初、景虎は本願寺と敵対していました。
元亀三年(1572)正月、信長が摂津、河内を攻めるとの風聞がたちましたが、この時、顕如上人は信玄に、信長が攻めてきたなら、しかるべき手立てをとるように依頼しています。本願寺と信玄が呼応しあう関係であったことが知られます。
信長の領国は信玄の領国は接しています。信長の支配した美濃国を中心にした領域の東側の地域は信玄が支配した領域です。信玄の動きには信長も気を遣っていました。信玄にとっても、信長が京都に入り、中央に地歩を固めることは憂慮すべきことでした。
元亀三年十月、信玄は信長を討つため出陣します。信玄は兵を三隊に分け、一隊は信長の本拠地である美濃へと進み、一隊は徳川家康の支配する三河へと進み、信玄自身は遠江へと進みました。家康と信長と同盟関係にあり、家康は信長方についていました。
信長は元亀元年より、浅井氏、朝倉氏、本願寺方の一揆勢と戦っていましたが、この戦いは止んだわけではなく、浅井勢、朝倉勢、一揆勢は各地で衝突していました。信長にとっては敵がさらに増えたわけで、信玄の進軍は信長に脅威を与えました。
信玄の軍は強力で、美濃、三河、遠江に攻め入り、信長勢、家康勢を倒していきます。十二月、信玄勢と家康勢、信長勢は遠江の見方ヶ原で大規模な合戦にいたりますが、この戦いでも信玄勢は大勝します。信玄はさらに侵攻を続け、元亀四年(1573)二月には三河の野田城を落としています。
こうした信玄の動きに合わせ、元亀四年二月、京都で足利義昭が信長に対し挙兵します。義昭は信長によって将軍に擁立された人物です。その義昭が信長に反抗したのです。信長が義昭を将軍に擁立したといっても、二人は、信長は義昭の将軍としての権威を利用し、義昭は信長の武力を利用するといった関係であり、互いに信頼しあっていたわけではありません。二人の間に軋轢が生じるようになり、それが深まって挙兵にいたったのです。二人は四月に勅命により、和睦します。
信玄勢は以後も侵攻を続けていましたが、四月となって、突如、信玄勢は侵攻を止め、甲斐へと戻ります。野田城を落したころから信玄はしばしば喀血するなど体調を崩していました。そのため撤退をはじめたのです。信玄は撤退の途中の信濃で死亡します。
信玄勢が撤退したことにより、信長勢は勢いを盛り返します。七月、足利義昭が、再度、信長に敵対しましたが、これには信長も強硬な態度をとり、義昭を追放します。将軍の追放ということによって、室町幕府はここに崩壊します。七月末には改元もあり、元亀の年号は天正との年号に改められました。
改元後の天正元年(1573)八月、信長は大軍をひきいて近江に攻め入ります。近江の浅井長政、越前の朝倉義景を討つためです。決着はすぐにつきました。信長の進軍に対し、越前の義景は長政の救援のため自ら近江に向かいましたが、逆に信長に越前へと追われます。義景は近親者に信長方に寝返る者が出るなどして追い詰められ、自刃します。長政の方も居城を羽柴秀吉、すなわち、のちの豊臣秀吉に攻められ、自刃しました。義景が自刃したすぐのちのことです。
本願寺と連携していた、武田信玄、朝倉義景、浅井長政は三人とも死亡しました。後ろ盾を失った本願寺は、十一月、一旦、信長と和睦します。本願寺と信長との和睦はこの後、四箇月半ほどの間、保たれました。
信長に追放された足利義昭は、追放後、各地を転々とすることになります。義昭は信長への対抗上、本願寺に味方することになり、以後もその立場から本願寺と信長との戦いに関わっていきます。
(熊野恒陽 記)