【百三十五】 「信長との戦い その六」 ~戦いは終わりに~

2019.08.27

 本願寺は天正四年(1567)以来、毛利輝元と連携して織田信長と戦っています。輝元は配下の船団を駆使して本願寺を助けました。輝元は備後の小早川水軍、伊予の村上水軍を従えており、大きな船団を組織していました。

 

 天正四年七月、輝元方の船団は、海上、信長方の船団を破り、船を木津川の河口に入れて大坂へ食料を運び入れましたが、信長はこれに対し、直ちに伊勢の九鬼氏に命じて大船を造らせています。九鬼氏も水軍を率いた一族です。大船は天正六年(1578)に完成し、六月末、伊勢を出て大坂沖へと向かいました。船は数百人もの人が乗れる大きさで、大砲を装備していました。燃えないように鉄板で装甲されていたともいわれています。船は六艘造られ、別の家臣に命じて造らせた大船と、合わせて七艘が大坂沖に向かいました。

 

 大坂沖に近づく大船に対し、本願寺勢は小舟に乗って矢や鉄砲を放ちましたが、逆に大砲を撃たれて追い払われました。七月の中旬、信長勢は七艘の船を大坂の近くの海岸に泊め、海上の通路をふさぎました。

 

 こののちの十月、摂津国の有岡城の荒木村重が、突如、信長にそむき本願寺に味方しました。村重は信長に重用された武将で、信長から摂津の支配を任せられていました。村重のいた有岡城は現在の兵庫県伊丹市にあった城です。この城はもと伊丹城といいましたが、村重がこの城に入り、名を有岡城と改めました。この村重の裏切りには信長も、相当、困惑しています。村重が離反した際には、村重の一族の者もともに離反しています。村重の一族は摂津の尼崎、高槻、茨木といった地にいて、それぞれの地を治めていました。摂津の重要な地の為政者が信長方から本願寺方になったわけであり、信長が困惑したのも当然のことです。村重に先だって、播磨の三木城の別所長治が信長方から離反し、長治はその後も城に立てこもって信長勢に対抗していましたが、以後、村重は本願寺に加え、この長治とも連携して信長に対抗していくことになります。

 

 海上の通路をふさいだ大船に対しては、十一月、輝元方の船団が攻撃をしかけています。輝元方は六百艘もの船で攻撃をしかけましたが、この輝元方の船団も大船からの砲撃により追われてしまいました。輝元は船で食糧を運び本願寺を援助していましたが、これで船での食糧の運送は望めなくなりました。本願寺に加担していた村重の一族の者にも、籠絡にあって信長のもとに帰服する者が出てきました。本願寺は徐徐に追い詰められてきています。

 

 天正七年(1579)十月には、村重の居城の有岡城も陥落します。有岡城は天正六年十一月以来、信長勢に攻められていました。十二月には信長勢は鉄砲の討ち手を揃えて攻撃し、城下に火を放ってもいます。村重はこうした攻撃に耐えていましたが、天正七年九月、村重は、突然、城をそのままにして城から逃げ出します。村重は数人の家臣を引きつれただけで、ほかの家臣は城にのこされました。城主が逃亡したことでのこされた家臣たちの戦意もなくなりました。十月、有岡城は開城し、戦闘も終わります。

 

 天正七年十月には、これまで輝元方として本願寺に味方していた宇喜多直家が信長方へと寝返っています。直家は備前国を支配していた、きわめて有力な武将です。備前は輝元の支配する安芸、周防、長門などのすぐ東に位置します。輝元が大坂の本願寺を救援するにしても、直家の存在は大きな障害となります

 

 その後、天正八年一月には、さらに播磨の三木城も落城しています。三木城の別所長治は輝元に食料などの援助を受けて一族や家臣ともども城に立てこもっていましたが、備前の直家が寝返ってからは輝元が援助を続けることは難しくなりました。食糧が不足しつつも長治はよく城を守りましたが、一月、信長勢が長治一族が腹を切れば家臣たちは助命するといってきたので、長治一族はこれをうけて切腹し、城は落ちました。

 

 有岡城に続き、三木城も陥落しました。海上をふさぐ大船と宇喜多直家の寝返りにより、輝元からの援助も望めません。本願寺は孤立しました。加えて、長引く戦いによって、本願寺自体も疲弊していました。食料や武器、さまざまな物資に戦いのための人員、それらも皆、不足しています。もはや勝算はありません。今後、どうするか。決断の時がせまってきました。すでに天正七年の十二月以来、朝廷は本願寺に信長と和睦するよう勧めています。本願寺は朝廷の勧めに従い、信長と和睦することにしました。

 

(熊野恒陽記)

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