【百三十七】 「為益乃娘」 ~興正寺の住持の家の血筋は途絶えていない~

2019.08.27

 教如上人は顕如上人が大坂から鷺森へと移ったあとも、大坂にとどまり織田信長との戦いを続けました。これにより顕如上人と教如上人は激しく対立します。

 

 この対立は信長との戦いが終わった以後も続きます。戦いが終わったあと教如上人は大坂から雑賀に移りますが、教如上人が雑賀に移ったのちも、同じ雑賀の鷺森にいる顕如上人は教如上人と会うことはありませんでした。その後しばらくして教如上人は雑賀を去ります。教如上人が雑賀に移ったのは天正八年(1580)の八月のことで、雑賀を去るのは十一月のことです。

 

 こののち顕如上人と教如上人は天正十年(1582)の六月となって和解します。天正十年六月二日、本能寺の変により織田信長が死亡します。顕如上人と教如上人の対立は、教如上人が信長に抵抗したことが原因です。その信長の死を機に、和解が斡旋されました。
この和解の斡旋をしたのは顕尊上人です。この時、顕尊上人は十九歳です。何事に対しても十分に対応できる年齢です。顕尊上人は本願寺と信長とが戦っていた最中の天正三年(1574)正月二十八日、十二歳で得度し、年々と活動の幅をひろげていっていました。

 

 顕如上人と教如上人の和解にあたって、顕尊上人は朝廷に申し入れ、朝廷から和解を勧めてもらいました。朝廷は顕尊上人の申し入れをうけ、顕如上人と教如上人の和解を勧める女房奉書を下しています。この朝廷の勧めに従って、顕如上人が教如上人を許し、六月二十七日、和解が成立しました。

 

 この顕如上人と教如上人の和解後の八月六日、顕尊上人が結婚します。相手は公家の冷泉為益の娘です。冷泉家は『新古今和歌集』の撰者である藤原定家の子孫の家で、歌道、蹴鞠を家業としていました。冷泉為益の娘は、顕尊上人と結婚するまでは女官として誠(さね)仁(ひと)親王に仕えていました。誠仁親王は正親町天皇の皇子で、次の天皇となる立場にあった人です。政治の面でも大きな活躍をしました。誠仁親王は天皇となる立場でしたが、この後、譲位を前にして亡くなり、天皇にはなりませんでした。正親町天皇のあとには誠仁親王の王子が天皇となります。後陽成天皇です。

 

 冷泉為益の娘と顕尊上人の結婚は誠仁親王の在世中になされたものであり、結婚に際しても、為益の娘はまず誠仁親王に暇乞いをし、親王の許しを得た上で、京都から顕尊上人のいた雑賀の鷺森へと向かっています。京都を出たのは八月二日のことです。六日に行なわれた婚儀の様子は美しいものであったといいます。

 

祝言已下雑談、美麗之義共也(『言経卿記』)

 

 この時、為益の娘は十八歳です。結婚後、為益の娘は西御方の通称で呼ばれます。西御方はのち得度し、祐心の法名を称します。宝寿院との院号も号しました。

 

 結婚の前には、為益の娘は典(す)侍局(けのつぼね)と呼ばれていました。典侍は律令の令によって定められた役職で、天皇に近侍し、天皇への願い出を取り次いだり、天皇の意を伝えたりすることを職掌とします。中流の家格の公家の子女が典侍となりました。誠仁親王は天皇に即位していないため正確には典侍ではありませんが、為益の娘はいうなればこの典侍として親王に仕えており、そこから典侍局と呼ばれました。

 

 典侍は天皇に親しく仕えたことから、天皇の寵愛をうけ、天皇の子を生むことも珍しいことではありませんでした。この為益の娘も誠仁親王の子を生んでいました。生んだのは二人の王女で、一人は幼いうちに亡くなり、一人は為益の娘と顕尊上人との結婚を機に天皇家にゆかりのある安禅寺に入室します。この王女は心(しん)月(げつ)女王といい、安禅寺宮と称されました。

 

 為益の娘は誠仁親王の正室ではありませんが、親王に寵愛されていました。その為益の娘が顕尊上人と結婚するのも理由があってのことです。為益の娘は興正寺の住持の家の血筋をひいていました。この娘は蓮秀上人の孫です。顕尊上人の養父は証秀上人であり、証秀上人の父が蓮秀上人です。蓮秀上人の娘は冷泉為益に嫁しており、二人の間に生まれたのがこの娘でした。

 

 興正寺は顕尊上人が継いだものの、顕尊上人は顕如上人の子であり、そのままでは本来の興正寺の住持の家の血筋は途絶えてしまいます。その血筋をひくのが為益の娘でした。為益の娘と顕尊上人とが結婚することは、誰もが当然のことと考え、納得するものでした。だからこそ、誠仁親王も為益の娘が顕尊上人の妻となることを許諾したのです。顕尊上人が興正寺を継いだからといって、興正寺の住持の家の血筋が途絶えたというわけではないのです。

 

(熊野恒陽 記)

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