【百七十】三百五十回忌 東西本願寺で同時に三百五十回忌が行なわれる

2019.08.27

 慶長十六年(一六一一)は親鸞聖人の三百五十回忌の年にあたっています。これにより西本願寺では三月十八日から二十八日までの十昼夜にわたって三百五十回忌の法要が執り行なわれました。本願寺ではこれ以前の文禄三年(一五九四)三月、親鸞聖人の三百三十三回忌の法要が行なわれています。三百三十三回忌に次いで行なわれたのが三百五十回忌です。三百三十三回忌は文禄二年(一五九三)閏九月、豊臣秀吉の命令により教如上人が隠居させられ、准如上人が本願寺を継いでからすぐあとに行なわれたものです。三百三十三回忌は准如上人によって執り行なわれましたが、これは自分が正統な後継者であるということを顕示するために行なわれたもののようです。

 

 隠居させられた教如上人はその後、慶長七年(一六〇二)に烏丸六条の地を得て、東本願寺を建立しています。東西の本願寺は末寺、門徒の帰属をめぐって激しく争っていましたが、この三百五十回忌ということでも対立します。

 

 東本願寺でも慶長十六年三月十八日から二十八日まで三百五十回忌の法要が行なわれます。

 三百五十回忌の法要を執行するにあたって西本願寺では阿弥陀堂、御影堂の整備を進めています。阿弥陀堂では須弥壇の後にある台高柱や天井に金箔が押され、本尊の阿弥陀如来像の光背も串御光から円光といわれる光背に替えられました。御影堂では内陣を広げ、内陣の柱を角柱から丸柱としました。親鸞聖人の御影の厨子の内と外にも金箔が押されました。内陣正面の欄間も彩色した彫り物とし、余間の壁の絵も墨絵から彩色された絵に改められています。このほか門が新築されるとともに、鐘楼堂にも彩色がほどこされました。全体として豪華で壮麗なものとなっていったのです。

 

 儀式の方式については天台宗の曼殊院の門跡である良恕親王に相談し、とり決められていきました。式の内容はおおむね顕如上人の代に大坂の本願寺で行なわれた聖人の三百回忌を踏襲したものとなっています。

 

 まず晨朝は阿弥陀堂で讃仏偈、十四行偈、御影堂で念仏正信偈が勤められます。こののちの日中には御影堂で無量寿経上巻、下巻、観無量寿経のうちの一巻が勤められるとともに、漢音の阿弥陀経が勤められ、漢音の阿弥陀経が勤められる際に行道が行なわれます。内陣では北側、外陣よりの横畳に准如上人が座り、以下、北側の畳には本願寺の一家衆が座ります。南側の畳には外陣よりに興正寺の准尊上人が座り、以下、南側の畳にも本願寺の一家衆が座ります。行道の時は、先頭に准如上人、次いで准尊上人、そのあとに南側に座っている一家衆、北側に座っている一家衆が順に続きました。逮夜は報恩講式が読まれ、正信偈が勤められます。二十八日だけは、日中に報恩講式が読まれ、それに次いで無量寿経の上巻、漢音の阿弥陀経が勤められ、漢音の阿弥陀経が勤められる際に行道が行なわれました。二十八日には准如上人と准尊上人を含めて、計二十人で行道が行なわれました。

 

 法要での衣装は、日中、逮夜は一家衆が法服、七条袈裟で、御堂衆と飛檐に着座する飛檐衆も法服に七条袈裟をつけました。一般の坊主衆は鈍色の衣に五条袈裟です。十九日の日中には、准如上人は香染めの法服に赤地金襴の七条袈裟で水晶の念珠、緋の房の付いた紫の檜扇を持ち、准尊上人は紫の法服に白地と紫地が切り交ぜとなった金襴の七条袈裟で水晶の念珠、白の房の付いた檜扇を持つという衣装でした。整備された御影堂のなか、一段と華やかであったと思われます。

 

 法要終了後の四月二十二日と二十三日には西本願寺で能が行なわれています。これは、本来、三百五十回忌の法要に合わせ行なわれるはずのものでしたが、三月に徳川家康が京都に逗留したことから、四月まで延期されることになったのです。御影堂の前の庭に舞台が設けられ、観る方は御影堂の上から舞台を観ました。御影堂外陣の正面には准如上人が座り、南側には女中方、北側には武士、医者、一家衆などが座りました。南側の縁には坊主衆、北側の縁には武家の供の者や町衆が詰めました。このほかには庭の上から観るという者もいました(『高祖聖人三百五十年忌日次之記』)。

 

 こののち十月二十一日から二十八日まで大坂津村の大坂御坊で報恩講が行なわれますが、准如上人はこの報恩講を大阪御坊での三百五十回忌法要と見立てていました。普段なら興正寺の住持が西本願寺の御坊の報恩講に出仕することはありませんが、大坂における三百五十回忌法要ということから、准尊上人もこの大坂御坊の報恩講には出仕しています。

 

(熊野恒陽記)

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