【百七十一】大坂の陣 天満興正寺が焼ける
2019.08.27
慶長十九年(一六一四)十月、徳川家康は居城の駿府城から大坂へと出陣し、大阪城の豊臣秀頼に攻撃をしかけます。大坂冬の陣です。家康は慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに勝ち、慶長八年(一六〇三)に幕府を開きますが、権力を掌握する上ではまだ不安な要素がのこされていました。それは豊臣秀吉の実子の秀頼の存在です。関ヶ原の戦いは豊臣秀吉の死後の権力をめぐっての争いでしたが、これは豊臣家と徳川家が戦ったのではなく、石田三成と家康との戦いです。秀頼は石田方の西軍に庇護されていましたが、家康も豊臣家に敵対するのではなく、表面上は秀頼のために石田方と戦うという態度をとっていました。このため関ヶ原の戦いののちも豊臣家は滅びることはありませんでした。豊臣家は家康のもとの主君の家筋であり、家康だけではなく、他の大名に対しても強い影響力をもっていました。家康に反対する勢力が秀頼のもとに結集するおそれは十分にありました。家康は関ヶ原の戦い以後、豊臣家の扱いには苦慮し、さまざまな懐柔策をとってきましたが、将来に禍根がのこらないよう、ここに豊臣家の討滅に踏みきったのです。
冬の陣の直接の契機となったのは方広寺の梵鐘の銘文です。銘に「国家安康」とあるのを家康の諱を切り離した不吉なものだとしたのです。方広寺は秀吉が建てた寺で、慶長の大地震で倒壊したため、秀頼が再建しました。その再建された寺の梵鐘にこの銘文が記されていたのです。秀頼方は弁明につとめましたが、家康は聞き入れず、挙兵にいたりました。
秀頼のいた大坂城は秀吉が築いたまさに難攻不落の城です。秀頼勢は籠城策をとりました。家康勢も攻めを急がず、城を囲み長期戦に持ちこみました。膠着した状態のなか、両者は、一旦、和睦します。和睦の条件として、家康は城の堀を埋め、二の丸、三の丸を取り壊します。大坂城は本丸をのこすだけになりました。
和睦後の慶長二十年(一六一五)四月、家康は、再度、挙兵し、大坂に向かいます。大坂夏の陣です。各地で激しい戦いが繰りひろげられたのち、五月、大坂城は焼け落ち、秀頼と秀頼の生母の淀君は自害します。
これにより豊臣家は滅亡しました。ここにいたるまでの家康勢、秀頼勢の戦闘はすさまじく、城だけではなく大坂の街の大半も焼けてしまいました。大坂城からさほど離れていない天満の興正寺もこの家康勢と秀頼勢との戦闘により焼けてしまいます。
態染筆候、仍天満坊再興思立候、其辺乱後一入可為造左候へとも、被抽報謝、不依多少被励懇志候ハハ、仏法世間共可興隆候(「興正寺文書」)
准尊上人のご消息です。八月十七日付で、河内国、摂州中嶋、惣坊主衆中、同門徒中に宛てられたものです。このご消息には天満御坊の再興を思い立った、と書かれています。続けて、その地方も乱により困難な状況にあるが、懇志に応じてくれたなら仏法の興隆ともなるとあります。ここにいう乱は、冬、夏の大坂の陣を指しています。大坂の陣後に天満御坊の再興を思い立ったわけで、ここから大坂の陣により天満御坊が焼けたことが知られます。再興というからには、ほぼ全焼したということなのだと思います。この准尊上人の意を受け、以後、天満では御坊の再興が始まります。
天満の興正寺は大坂の陣により焼失しましたが、富田林の興正寺は大坂の陣に際して、被害を避けるため禁制を下してもらっています。
禁制 河洲 とん田はやし
一軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事
一竹木剪取事
一放火之事
右条々於違犯輩者、可処厳科者也
慶長廿年五月二日(印) (「興正寺文書」)
これは慶長二十年五月二日に豊臣秀頼が富田林の寺内町に対して下した禁制です。慶長二十年の大坂夏の陣に際し、秀頼の軍勢が富田林で乱暴狼藉をはたらいたり、竹や木を刈り取ったり、放火したりすることはないと保証しています。こうした禁制は下される側が礼金を払って下してもらうものです。これにより秀頼の側が町に危害を及ぼすということはなくなりました。
富田林以外では、興正寺塚口御坊のある摂津国川辺郡の塚口村も禁制を下してもらっています。こちらは慶長十九年に家康配下の池田利隆、板倉勝重、そして、徳川家康にそれぞれ禁制を下されるとともに、豊臣秀頼からも禁制を下してもらっています(「興正寺文書」)。双方から安全を保障されたのです。
(熊野恒陽記)