【百七十二】御影の移徙 西本願寺の御影が興正寺に移される
2019.08.27
元和二年(一六一六)一月二日、顕尊上人の妻で准尊上人の母にあたる宝寿院祐心尼が亡くなります。五十二歳でした。これに先立って、慶長十九年(一六一四)十月五日には顕尊上人の兄で東本願寺を建立した教如上人が五十七歳で亡くなっています。東本願寺は徳川家康の援助のもとに建立されますが、その家康も元和二年の四月十七日、七十五歳で死亡します。家康の開いた江戸幕府は、家康の亡きあと、より一層、力を強めていくことになります。
祐心尼が亡くなってから二年近くが経った元和三年(一六一七)十二月二十五日、西本願寺で火災が発生します。この日は煤払いが行なわれ、その夜の十時ころ火が出ました。大きな火災で、この火事により、西本願寺の阿弥陀堂、御影堂、御影堂門などが焼けてしまいます。阿弥陀堂門、亭、台所などがわずかに焼けのこりました。火災に際し、御影堂に安置されていた木像の親鸞聖人の御影は家臣の川那部豊前の屋敷へと移されます。戸板に載せて移されました。
川那部豊前の家に御影が置かれたのは二十日の夜だけで、御影は二十一日、興正寺へと移されます。西本願寺の准如上人も興正寺へと移り、火災後は御影が移されただけでなく、准如上人も興正寺で過ごしました。
廿一日興正寺御堂へ御移アリ、毎朝之勤行等アリ、准如上人モ同興正寺殿ニ御座被成、翌年正月年頭之御礼等被成御請候(『法流故実条々秘録』)
興正寺でも西本願寺に御影があった時と同様に毎朝の勤行があり、翌元和四年(一六一八)の年頭の准如上人への礼なども興正寺で受けたと書かれています。
興正寺では御影は本堂内陣の左脇壇に安置されました。興正寺では、普段、この左脇壇に顕尊上人の代に授けられた等身の御影といわれる絵像の御影が安置されていました。等身の御影は本願寺の御影を正面から描いたもので、本願寺の御影を模したものです。それに代わって、もとの御影が安置されたのです。
興正寺に御影が安置されたのは元和四年の二月四日までです。西本願寺では火災後すぐに復興に向けた工事がはじめられ、まず仮堂と准如上人の居室が建てられます。こうして出来上がった仮堂に二月四日、御影が移されます。准如上人もこの居室へと移りました。
御影の移徙の法要には興正寺の准尊上人も出仕しています。この時、建てられた仮堂は南北九間、東西七間の規模で、南向きに建てられました。のち仮堂は南に一間、東に三間分、拡張されます。この後、対面所が建てられるなど、復興の工事は徐々に進んでいきます。
仮堂ではない正式な阿弥陀堂の造立がはじまるのは元和四年の七月のことです。十月には上棟の祝いがあり、報恩講の前の十一月十七日に本尊の阿弥陀如来像が移されました。この阿弥陀堂は東向きに建てられ、梁間十三間、桁行十三間半ほどの規模でした。阿弥陀堂の北側の余間の段には聖徳太子、南側の余間の段には法然上人の絵像が掛けられ、内陣の左右の脇壇には、法然上人以外の七高僧を三高僧ずつ二幅に分けて描いた絵像が掛けられました。先帝の後陽成天皇の位牌も安置されています。しかし、この阿弥陀堂に本尊の阿弥陀如来像が安置されたのはわずかに五日間だけです。
元和四年の十一月二十日、この阿弥陀堂に親鸞聖人の御影が移されます。阿弥陀堂が建てられても、御影堂が無かったため、御影をこの堂に移したのです。御影が移されたことから、阿弥陀如来像は十一月二十一日に茶所へと移されます。この茶所は一箇月前の十月二十日に完成したものです。以後、毎朝の本尊の阿弥陀如来への勤めはこの茶所で行なわれました。
本尊の阿弥陀如来像が再び阿弥陀堂に移されるのは十八年後の寛永十三年(一六三六)のことです。西本願寺の住持はすでに准如上人から次の良如上人へと替わっていました。准如上人は御影堂の再建を願ってその準備を進めていましたが、再建は容易なことではなく、再建が具体化する前に亡くなってしまいます。御影堂は良如上人が住持職を継いだのちの慶長十年(一六三三)六月となって造立がはじまり、慶長十三年の八月十九日にこの堂に御影が移されて完成します。これに合わせて阿弥陀如来像も阿弥陀堂に移されました。
この時に建てられた御影堂が現在の西本願寺の御影堂です。現在の西本願寺の阿弥陀堂はこののちの宝暦十年(一七六〇)に建てられたものです。それ以前の親鸞聖人の御影が安置されていた阿弥陀堂は、現在の阿弥陀堂の建立に際して、京都の西山に移され、西本願寺の西山御坊の本堂になります。
(熊野恒陽記)