【百七十三】准秀上人の得度 准秀上人は十五歳を機に得度した
2019.08.27
准尊上人のあとに興正寺の住持となる准秀上人は元和七年(一六二一)四月十九日に得度します。准秀上人は慶長十二年(一六〇七)の生まれであり、元和七年に十五歳となります。十五歳は一般に成人になる年齢です。准秀上人もそれに倣って十五歳を機に得度しました。准秀上人の准秀という法名はこの得度以後の名です。准秀上人の童名は岩丸で、得度まではこの岩丸の名が用いられていました。興正寺の家臣や末寺坊主などが岩丸の名を口にする場合は、岩様といっていました。得度以後、法名の准秀を用いるとともに、岩丸の童名を改め、昭超との実名を名乗ります。
准秀上人の得度は西本願寺で行なわれました。通常、得度の儀式は御影堂で行なわれますが、西本願寺は元和三年(一六一七)に火災で阿弥陀堂、御影堂を焼失し、この時にはまだ御影堂が無かったため、得度の儀式はすでに建立されていた阿弥陀堂で行なわれました。阿弥陀堂といっても、御影堂が無かったために親鸞聖人の御影はこの阿弥陀堂に移されており、この時には阿弥陀堂が御影堂の役目をはたしていました。
得度の儀式がはじまったのは、巳刻、すなわち午前十時ころです。儀式中は堂内への一般人の立ち入りは禁じられました。興正寺からは女房衆が二十人ほど出向いており、この人たちは特別に堂の北側の縁で参詣することが許されました。西本願寺寺内の坊主や近在の興正寺門下の坊主衆は堂内に入ることができました。坊主衆は堂内の東南の隅にまとまって座りました。
式で准秀上人が着座するのは内陣の南側、中ほどの畳です。父である准尊上人は南側の余間の外陣よりに西向きに座りました。内陣北側、外陣よりの横畳には西本願寺の准如上人が座り、准如上人によって式が進められていきます。まず准秀上人が南余間のさらに南側の間の西側奥から出て、内陣の南側、中ほどの畳に座ります。准秀上人は直衣に袴の装束でした。着座後、御堂衆が准秀上人の髪に櫛を入れ、髪の毛を整えるなどします。そののち准如上人が准秀上人の傍へと移動し、准秀上人の頭に剃刀を当てました。准如上人は剃刀を当てただけで、実際に髪の毛を剃るわけではありません。剃刀を当てたのちに御堂衆が浴衣を准秀上人に着せ、それから御堂衆が実際に髪を剃ります。得度に際し、剃刀、角盥、水瓶、櫛、浴衣といった道具が用意されるとともに、御堂衆には水瓶を持つ役や髪をひたす役、剃刀を取り替える役や明かりをともす紙燭の役といった役が割り当てられました。そうした手助けのもと式が進行していきました。得度の際に用意された道具のうち、角盥は興正寺から持参したものです。蒔絵をほどこした角盥でした。
剃髪後には勤行が行なわれます。准秀上人は、一旦、席を立ち、法衣に着替えて改めて出仕しました。鈍色の衣に織物袈裟、檜扇に水晶念珠の装束です。勤行の時には准秀上人は内陣南側の先ほどよりは少し外陣よりの畳に座り、准尊上人は准秀上人の向かいの内陣北側の畳に座りました。准如上人は内陣北側、外陣よりの横畳にそのまま座っていました。准尊上人は准如上人のすぐそばに座るというかたちになりました。北側の畳の奥、後門よりの所には本願寺住持の一族である一家衆や御堂衆が座り、南側の畳の奥にも一家衆や御堂衆が座りました。一家衆は准秀上人が剃髪している間は飛檐に控えており、勤行となって内陣に移りました。勤行で勤められたのは正信偈と和讃三首です。和讃の唱え方は順次に一人が初句を唱えていく巡讃の形式で、一首目は准如上人、二首目、三首目は一家衆が初句を唱えることになっていましたが、准如上人の意向により三首目の和讃は准尊上人が初句を唱えました。
御勤行、正信偈・・・和讃三首[浄土ノ大菩提心]・・・念仏ユリ・・・順讃[初首上様、二首メ慈敬寺顕智]、三首目常楽寺[准恵ニ]当候へ共、興門様ニ御出被成候へと被仰候テ興門様也(『元和日記』)
剃髪、勤行のすべてが終わったのちは得度の祝いが行なわれましたが、これは興正寺の身内だけで行なわれました。正式な祝いは二日後の四月二十一日に行われます。准尊上人により祝義として強飯が用意され、准如上人をはじめ、一家衆、御堂衆、それに西本願寺の坊官、侍、小姓が強飯を食しました。祝いは得度の行なわれた阿弥陀堂の南側の余間で行なわれました。
得度したあとの准秀上人は興正寺新門主として西本願寺の日常の法要などにも出仕することになります。父である准尊上人とともに出仕することもあれば、一人で出仕することもありました。
(熊野恒陽 記)