【百七十四】准尊上人の示寂 その一 准尊上人は三十八歳で亡くなった

2019.08.27

 准秀上人は元和七年(一六二一)四月十九日に得度しますが、それから一年が経った元和八年(一六二二)四月十四日、准秀上人の父である准尊上人が亡くなります。この時、准秀上人は十六歳、亡くなった准尊上人は三十八歳でした。

 

 准尊上人が亡くなる前の四月四日には准秀上人の弟の六丸が十三歳で得度しています。六丸は准尊上人の六人目の子で、ここから六丸との童名が名付けられました。得度後は准圓との法名を名乗ります。准圓師の得度の十日後に准尊上人は亡くなったのです。准尊上人が亡くなったのは寅の刻と卯の刻の間のことと記録されています。午前五時ころということになります。

 

 准尊上人が亡くなったあとの葬送や中陰の勤行などについては、興正寺に蔵されている『往還院 不退院 受楽院 御葬終事』という書に詳細な記録がのこされています。往還院は興正寺の第十七世とされる顕尊上人、不退院は第十八世とされる准尊上人、受楽院は第二十世とされる良尊上人の院号で、これにはこの三上人の葬送の様子などが記録されています。

 

 准尊上人が亡くなったあと、遺体は興正寺の奥の間の上壇に安置されます。上壇の西側の床の間には臨終仏が掛けられ、前には三具足が置かれました。花はありましたが、蝋燭は立てられませんでした。遺体は頭北面西に寝かされ、頭の下には石枕が置かれています。遺体の周りには白い屏風が立てられました。ここで臨終の勤めが行なわれます。

 

 御臨終ノ勤ハ正信偈セヽ、短念仏百返、廻向願以此功徳也、御調声ハ新門様也、助音ハ興様御堂衆不残候

 

 臨終の勤めは正信偈舌々です。調声は准秀上人、助音は興正寺の御堂衆がのこらず勤めたとあります。

 

 准尊上人の遺体には直綴と絹袈裟が着せられましたが、これは興正寺の末寺頭である性応寺と端坊が着せました。遺体は両手の親指を紙縒りで結び合掌する姿にされ、手には木念珠が持たせられています。これも性応寺たちが持たせました。臨終の勤めののち、遺体を助老という脇息に似た台にもたれさせ、南西向きに座る姿としました。この格好としてから沐浴の勤めがありました。再び、准秀上人の調声で、正信偈舌々が勤められました。

 

 このあと、辰の刻、すなわち午前八時ころとなって、遺体は広間に移されます。門徒の人びとが遺体を拝することができるにするためです。

 

広間ニイタシ申候テ門徒ノ面々ニ拝セ申候

 

 遺体の後に金屏風、周りにも屏風が置かれ、門徒の人びとが拝する時は屏風を開けて拝しました。遺体は厚い畳の上に安置され、人びとが拝する際は、性応寺、端坊が遺体を抱え上げ、座っている姿にしました。性応寺、端坊の住持は興正寺住持に親しく仕える立場にあります。亡くなったあとも親しく仕えているのです。
酉の刻、午後六時ころ、遺体は入棺されました。遺体は左側を下に横臥するかたちで入棺されています。直綴に絹袈裟、木念珠の衣装に中啓が添えられました。中啓は棺の下、体の左側に位置するように置かれました。このほか棺には沈香も入れられています。棺の蓋の上には准秀上人により南無阿弥陀仏の名号が三行、草書で書かれました。真中の行の名号は一字分高く書かれました。中啓を棺の下に置くことや、真中の行の名号を一字分上げて書くことは西本願寺の准如上人の意向によるものです。中啓は体の右側に置くのが普通ですが、准如上人は、近ごろは左側に置く例も増えている、といって下に置くように指示しました。

 

 准尊上人の遺体を納めた棺が安置されたのは准尊上人が、常々、使っていた部屋です。東側の床の間に本尊が掛けられ、遺体の頭が東、顔が南に向くように棺が置かれました。入棺の勤めは正信偈舌々です。

 

 准尊上人の葬送は四月二十五日に行なわれます。棺はそれまでそのまま安置されました。

 

 朝勤過候テ、御棺置申候間ノ御勤アリ、セヽ短念仏也、新門様御調声也

 

 十五日以後は本堂の朝の勤めのあと、棺が安置されている部屋で准秀上人の調声により、正信偈舌々が勤められました。

 

 酉刻ハカリニ御勤アリ、セヽ短念仏也、御調声同前也、御葬礼ナキ間ハ朝夕トモニ如此候也

 

 夕方の午後六時ころにも、朝の勤めと同じく准秀上人の調声により正信偈の勤めがあります。葬送までこの朝夕の勤めが続きました。

 

(熊野恒陽 記)

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