【百七十五】准尊上人の示寂 その二 四月二十五日に葬送が行なわれる

2019.08.27

 准尊上人の葬送は元和八年(一六二二)の四月二十五日に行なわれます。葬送の様子は『往還院 不退院 受楽院 御葬終事』に記されています。

 

 葬送の勤行は興正寺の本堂で行なわれます。通常の朝の勤めが終わったあと、人びとが揃うのをまって勤行がはじまりました。准尊上人の遺体を納めた棺は当日のはやくから本堂の北側奥の局に移されており、まずその棺が興正寺の御堂衆によって外陣に運ばれます。外陣では棺に黒い九条袈裟が掛けられました。棺に続いて准秀上人が局を出て着座します。本堂にはすでに本願寺の一家衆や御堂衆が座っていました。本堂には坊主衆も詰めていましたが、坊主衆は勤行がはじまる前に庭へと移動させられました。勤行は十四行偈です。

 

 勤行後、一家衆や御堂衆は庭に出ます。棺は局のそばで網代輿に乗せられ外に出ました。輿に乗せる時に九条袈裟ははずされました。輿を担ったのは、准秀上人、准圓師とともに、准尊上人の息女が二人、それに常楽寺、顕証寺などの本願寺の一家衆が四人、さらには性応寺の親子と端坊です。一家衆のうち誰が輿に肩を入れるかは、西本願寺の准如上人が決めていました。

 

 火葬が行なわれるのは興正寺の南の不動堂の野です。准尊上人の父、顕尊上人もここで火葬されています。興正寺から不動堂の野まで行列を組んで進みました。
道筋には町蝋燭が立てられています。路念仏の声とともに、行列は進んでいきました。

 

 到着後、棺は火屋に入れられます。准秀上人たち兄弟が火屋に棺を入れました。火屋は三間一尺四方で、葬送の前の十九日から作りはじめられていました。
調声人の焼香のあと火屋の勤行です。調声人は西本願寺門下の西光寺でした。

 

 正信偈セヽ行、和讃、生死の苦海ホトリナシ

 

 正信偈舌々の行譜、それに和讃が勤められました。勤行中、准秀上人、准圓師、准尊上人の二人の息女、それに本願寺の一家衆などが順に焼香し、最後には性応寺親子と端坊が焼香しました。

 

 この日の准秀上人の衣装は白の法服に紺と白の交ざった地の七条袈裟です。准圓師の衣装は黒の法服に赤地の金襴の七条袈裟でした。一家衆や御堂衆も七条袈裟を着け、坊主衆はそれぞれの格に応じて、七条袈裟や五条袈裟を着けました。かつては顕尊上人に仕え、その後は准尊上人に仕えていた下間頼亮は鈍色の衣に五条袈裟を着けていました。

 

 こののち、一同は、一旦、興正寺に戻ります。拾骨が行なわれるのは昼過ぎのことです。昼が過ぎてから、一同は、再び行列を組んで不動堂の野に向かいました。
 不動堂の野では遺骨が拾われ、勤行がありました。

 

 正信偈セヽノ行、和讃、本願力ニアヒヌレハ

 

 勤行中、焼香がなされます。准秀上人以下、朝の火屋の勤行の時と同じ順で焼香しました。
 勤行後、一家衆、御堂衆は先に興正寺へと向かい、そののちに准秀上人たちが興正寺へと向かいました。

 

 御骨ハ新門様ノ御輿ノサキヘ持テ歩ミ候、役人作州也

 

 新門は准秀上人、作州とあるのは美作守と称した下間頼亮のことです。准秀上人は輿に乗り、その前を頼亮が遺骨を持って歩きました。

 興正寺に戻ったのちは本堂で勤行が行なわれます。先に戻っていた一家衆、御堂衆たちはすでに所定の位置に着座していました。

 

 作州御骨ヲ持、内陣ヘスクニ被参、大卓ノ上、土香炉ノサキニヲカレ候

 

 遅れて、准秀上人や下間頼亮たちが戻り、頼亮が遺骨を内陣の前卓の上に置きました。

 

 新様内陣横畳ノ上ヘスクニ御ナヲリ候・・・コレ初メ也、則御門跡様御意也

 

 続いて、准秀上人が内陣北側、外陣よりの横畳に座りました。横畳は興正寺住持の座る畳です。准秀上人ははじめてこの横畳に座りました。横畳に座るのは准如上人の意向を受けてのものです。

 

 御勤、正信偈セヽノ行、和讃、弥陀成仏ノコノカタハ也、ユリ十、各巡讃也、慈敬、光善、顕証也

 

 勤行は正信偈舌々の行譜です。和讃は内陣に着座した慈敬寺、光善寺たちによって巡讃の形式で唱えられました。巡讃は本願寺だけで行なわれるものでしたが、顕尊上人の代から興正寺でも行なわれるようになっていました。この勤行は午後の四時ころに終了します。

 この後、一同は亭に設けられた中陰の間に移り、中陰の間で、再度、勤行を行ないます。

 

(熊野恒陽記)

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