【百七十六】准尊上人の示寂 その三 西本願寺阿弥陀堂の須弥壇に遺骨が納められた
2019.08.27
准尊上人は元和八年(一六二二)四月十四日に亡くなり、四月二十五日に葬送が行なわれます。それ以後、興正寺では准尊上人の中陰の仏事が行なわれることになります。准尊上人の葬送の様子を記録した『往還院 不退院 受楽院 御葬終事』には、准尊上人の中陰の仏事についても詳しい記録がのこされています。
准尊上人の中陰の期間中は、興正寺の亭に中陰の間が設けられます。亭は興正寺住持が客に対面したり、あるいはいろいろな行事を催したりする建物です。
御中陰の間、御亭ノ内、東方ニ二間ノ押板、奥ヘ間半ニ御用ヒ候、南向也
亭は北側に押板があり、北側が奥になるように建っていました。押板とは床の間のようなものです。亭の内部は襖などで区切ったりそれらを外したりと、狭くしても広くしても使えるようになっていました。北側の押板は東西に二間以上の間数がありましたが、その東側の東西二間分を中陰の間として用いたと書かれています。奥ヘ間半、というのは押板の奥行が半間であったということです。北側の東西二間の押板の前、すなわち南側が、人びとが参詣する場所で、勤行はここで勤められます。中陰の間の西側には二間分、御簾が掛けられていて、准秀上人はそこから出入りしました。
中陰の間の押板には准尊上人の御影が掛けられ、その前に、三具足、卓が置かれていました。卓には花束とともに餅、素麺などが供えられていました。准尊上人の遺骨もこの押板の壇上に安置されています。
この中陰の間では葬送のあった四月二十五日の夕方から勤行が勤められています。准尊上人の遺骨は拾骨され興正寺に戻されたあと、まず本堂内陣に置かれ勤行が勤められます。そののち遺骨はすぐに中陰の間に移され、中陰の間で勤行が勤められました。この勤行は中陰の間での逮夜の勤めだと記されています。
御中陰ノ間ニテ御勤アリ、正信偈ハカセ、和讃
節つきの正信偈が勤められました。
翌日の二十六日から、中陰の間では、晨朝、日中、逮夜の勤行が勤められます。本堂でも晨朝、日中、逮夜の勤行が勤められており、それに次いで中陰の間の勤行が勤められます。中陰の間では晨朝と逮夜は正信偈が勤められ、日中は日ごとに無量寿経上巻、無量寿経下巻、観無量寿経と阿弥陀経が順に勤められました。そして、この日中の勤行のあとには斎が供されます。
斎はいつも亭で供されました。
中陰の期間中の四月二十九日には臨済宗の建仁寺の僧たちが諷経のために興正寺を訪れています。准尊上人は、一時期、修学のために建仁寺に入っていたことから、建仁寺とはつながりがありました。建仁寺の僧たちが来た時は本堂で勤行を行ない、勤行のあとは僧たちに素麺を振る舞いました。
その後、五月八日には准尊上人の遺骨が塚に納められます。塚が築かれたのは京都東山五条坂のいわゆる大谷本廟の地です。西本願寺は慶長八年(一六〇三)、この地を徳川家康から給わり、その後、ここに御堂を建立していました。納骨に際し、塚の前では興正寺の御堂衆により正信偈舌々が勤められています。下間頼亮をはじめ興正寺の家臣たちも残らず参拝しました。
四十九日にあたるのは六月三日です。本堂と中陰の間で、晨朝、日中の勤行があり、その後に斎が供されました。斎は五十人ほどの人に供されています。
斎ののち中陰の間の押板に掛けられていた准尊上人の御影が本堂内陣の南側の脇壇に移されます。南側脇壇にはそれまで南に准尊上人の父の顕尊上人の御影、北に顕尊上人の父の顕如上人の御影が二幅並べて掛けてありました。この顕尊上人の御影に替え、北に顕如上人、南に准尊上人と並ぶように御影が掛けられました。顕尊上人の御影は脇壇の南の壁に北を向くかたちに掛けられました。このあとには勤行もありました。
この四十九日を機に准尊上人の妻の古満姫は得度します。得度後は長寿院妙尊と名乗ります。
翌六月四日には准尊上人の遺骨が西本願寺の阿弥陀堂の須弥壇の中にも納められます。この時、西本願寺には御影堂がなく、阿弥陀堂に親鸞聖人の御影が安置されていました。その須弥壇に納められたのです。須弥壇には元和二年(一六一六)に亡くなった准尊上人の母、宝寿院祐心尼の遺骨がすでに納められており、准尊上人の遺骨はその横に並んで置かれました。
四十九日までの一連の仏事を終えたあと、興正寺では正式な代替わりが行なわれます。これにより准秀上人があらたな興正寺の住持になります。
(熊野恒陽記)