【百七十八】准圓師 萩清光寺の住持となる
2019.08.27
准秀上人の弟である准圓師は、寛永元年(一六二四)、長門国へと移り、萩の清光寺の住持になります。京都を出たのは七月で、清光寺に入ったのは八月五日のことです。准圓師は十五歳でした。清光寺は毛利輝元の妻の清光院の菩提所として建てられたとされる寺です。准秀上人と准圓師の母、長寿院妙尊尼は毛利輝元と清光院の養女であり、准圓師は清光院の孫にあたります。
清光寺の由緒については、清光寺は清光院の在世中の慶長九年(一六〇三)ころ、清光院の菩提所として山口に建立され、慶長十二年(一六〇七)か十三年(一六〇八)ころに萩に移されたとされています。そして、清光寺が山口にあったことから、山口には興正寺屋敷という地ものこっている、ともされていました。
当寺開基は輝元公の御簾中、清光院殿為御菩提所御建立也、年号ハ慶長九年の比、清光院殿御在世の内於防洲山口御建立の由、因茲彼地興正寺屋敷と云旧地有之と申伝候、於萩御建立ハ慶長十弐三年比御建立と申伝候(『防長寺社由来』)
清光寺の由緒についてはこの程度のことしか伝わっていません。由緒といっても、のちの時代のいい伝えをまとめたものであって、正確な記録にもとづいたものではありません。この由緒では清光寺は清光院の菩提所として建立されたとありますが、おそらく清光寺は山口にあったキリシタンの教会から発展していった寺なのだと思われます。かつて山口にはキリシタンが多く住んでいてキリシタンの教会がありましたが、日本に滞在していたイエズス会のジョアン・ロドリゲス・ジアンはイエズス会本部に宛てた慶長十一年(一六〇六)三月十日付けの書簡で、毛利輝元が山口のキリシタンの聖堂と住居を七条興門に与えたといっています。七条興門は毛利輝元の養女の妙尊尼と結婚した准尊上人のことです。この教会は現在の山口市道場前二丁目にある本國寺という寺の門前にあったことが分かっていますが、山口の古い町の様子を描いた「山口古図」という古地図には本國寺の門前の教会のあった場所に「興御殿」という文字が記されています。興正寺御殿のことであり、由緒に述べられている山口には興正寺屋敷との地があるというのも、この地を指しているものと思われます。この興正寺屋敷が萩に移され清光寺となるのだと思います。清光寺との寺号は、興御殿、興正寺屋敷との名称がのこることから、山口にあった時はまだ清光寺と呼ばれず、萩に移ってから清光寺と号したのだと考えられます。その後、さかのぼって山口の興正寺屋敷をも清光寺と呼ぶようになったということなのだと思います。
准圓師が萩の清光寺の住持となった時には、毛利輝元も清光院もまだ亡くなってはいませんでした。輝元が亡くなるのは寛永二年(一六二五)、清光院が亡くなるのは寛永八年(一六三一)です。清光寺が正式に清光院の菩提を弔う菩提所となるのは清光院が亡くなった寛永八年からのことです。正式な菩提所となるのが寛永八年であるにしても、清光寺はそれ以前から別格の扱いを受けていた寺です。清光寺は長州藩内のすべての真宗の寺を与力末寺としますが、これは毛利輝元の意向にもとづくものです。毛利輝元により創建され、以後も長州藩の支援を受け続けたのが清光寺です。
清光寺の住持としては、准圓師は第一世とされています。もともとの清光寺を与えられた准尊上人は開山という位置づけです。准圓師はのち病身となり、寛永十一年(一六三四)、准圓師の弟の良重師が十七歳で准圓師の跡を継ぎます。第二世です。准圓師は正保三年(一六四六)十一月二十日、三十七歳で亡くなります。准圓師も良重師も毛利家の縁者を妻としており、毛利家とはその後も深いつながりがありました。
准圓師の墓としては、山口市阿知須引野の明栄寺に築かれた墓がいまものこされています。明栄寺は准圓師と関係があり、そのためこの寺にも、正保四年(一六四七)、墓が築かれました。五尺四方の石垣で囲われた塚で、塚の上には一本の松が植えられました(『防長寺社由来』)。その後、松は植え替えられましたが、いまも松が墓石を抱きしめるような姿で墓がのこっています。明栄寺の伝えでは、准尊上人が亡くなったあと妻の妙尊尼はこの寺に住んだとされ、やがて病を得た准圓師もこの寺に移り、この寺で亡くなったとされています。そして、妙尊尼が植えたのが塚の松で、子を思って松が墓を抱きしめているのだといっています。
もとよりこれは伝説です。現実には妙尊尼は明栄寺ではなく、京都の興正寺に住んでいました。
(熊野恒陽記)