【百七十九】准如上人の死 准如上人の代にいろいろな行事が始まった
2019.08.27
寛永七年(一六三〇)十一月三十日夜、西本願寺の准如上人が亡くなります。准如上人は寛永七年の夏ころから体調を崩し、食べ物も受けつけなくなっていました。それでも十月二十三日には京都を出て、大坂、堺へと赴いています。大坂御坊、堺御坊の報恩講に出出するためです。京都に戻ったのは十一月五日のことです。二十一日の夜からは西本願寺で報恩講が行なわれます。報恩講の間、准如上人は内陣に出仕することはありませんでしたが、毎日、御簾の間に出て参拝をしていました。二十八日はことのほか気分もすぐれ、元気な様子でしたが、その日の晩から体調が悪化します。そして、三十日の夜、亡くなります。
亡くなる前、准如上人は六字名号を拝することを望みます。名号の軸が用意されると、准如上人は六字名号を拝し、念仏を称えました。その後、准如上人は名号の軸を外させます。あとは念仏を称えるばかりで、そのまま亡くなりました。五十四歳でした。准如上人が亡くなったあと、准如上人の息男の良如上人が西本願寺を継ぎますが、良如上人はこの時、十九歳でした。
准如上人の葬送は十二月十四日に執り行なわれます。葬儀は葬場を設け営まれました。葬場となったのは興正寺の南側に当たる地です。七条通りから南へ二百十間の所を北の端にしてそこから百間の南北百間、東西は東の堀川通りから西の猪熊通りまでの間の東西六十三間の地が葬場となりました。葬場の北側には青門が作られ、人びとはこの青門を通って出入りをしました。火葬を行なう火屋は葬場の南側に設けられています。火屋は四間四方の大きさでした。火屋では良如上人が火をかけ、准如上人の遺体が荼毘にふされました。興正寺の准秀上人もこの葬儀には出勤しています。
亡くなった准如上人は学問を好み、能や連歌といった芸能にも通じていた人です。この准如上人の代には、本願寺でいろいろな行事が再興されたり、あらたに始められたりしています。
大坂に本願寺があった時代には七夕に本願寺に花を献上するということが行なわれていましたが、本願寺が京都に移ってからは、元和二年(一六一六)の七夕に奈良の西本願寺の末寺が西本願寺に瓶花を献上したのに始まり、翌元和三年(一六一七)にはいくつかの寺が花を献上するようになって、以後、七夕に西本願寺に花を献上するということが恒例となります。元和二年は准如上人が四十歳の時です。元和三年に花を献じた寺には、興正寺や興正寺の末寺の東坊も含まれています。この花の献上は次第に花の豪華さが競われ、さまざまな工夫を凝らした花が献上されるようになります。のち西本願寺では毎年の七夕にこの花を対面所に並べて、一般の人びとにも花を見物させました。
七夕の花とともに、西本願寺には盆に灯籠が献上されるようにもなります。西本願寺では盆に阿弥陀堂、御影堂の両余間に切籠灯籠が置かれましたが、この灯籠のほかに、家臣や末寺などが灯籠を献上するようになったのです。その灯籠も両堂に並べられました。こちらの灯籠は戦記物語などにもとづく作り物を据えた、装飾に富んだ灯籠です。この灯籠も一般の人びとに公開され、多くの人びとが見物に詰めかけました。
盆に関わることでは、西本願寺では盆踊りも行なわれており、准如上人が三十六歳であった慶長十七年(一六一二)にはことに盛大な盆踊りが行なわれました。
御踊ハ午ノ刻過ナリ、ハタオトリノ衆五十人、中オトリノ衆三十人、何モ〱金銀ヲチリハメタル儀式、前代未聞ノ有様(『慶長日記』)
踊りは正午すぎに始まり、端踊りの衆が五十人、中踊りの衆が三十人で、金銀を散りばめた衣装であったと書かれています。端踊りの衆は西本願寺の侍衆、中居衆などで、中踊りの衆は准如上人と西本願寺の家臣たちで、この中踊りの衆には興正寺の准尊上人も加わっていました。踊りはまず西本願寺の御影堂の前で踊られた後、興正寺の御堂の前で踊られ、最後に西本願寺の台所の前で踊られました。
このほか本願寺の御堂での法要の奏楽も、この准如上人の代の寛永三年(一六二六)に始まったと伝えられます。最初の年には、准如上は息男の良如上人や御堂衆たちに奏楽を命じ、翌年からは一家衆にも笙や篳篥などの役を割り当てて楽を奏でさせました。この時には、興正寺の准秀上人も准如上人から篳篥の役を割り当てられています。准如上人は十歳のころから奏楽の手ほどきを受けており、そうしたことから若いころより奏楽には関心が高かったようです。
(熊野恒陽記)