【百八十】本願寺御影堂 この後、真宗で巨大な堂が建てられるようになる
2019.08.27
西本願寺の阿弥陀堂、御影堂は元和三年(一六一七)十二月、火災により焼失します。准如上人の代のことです。阿弥陀堂の方は翌元和四年(一六一八)の十一月に再建されましたが、御影堂の方はその後も再建されることはありませんでした。そのため親鸞聖人の御影は阿弥陀堂に安置され、阿弥陀堂に安置されなければならない阿弥陀如来像は茶所に安置されるという状況になっていました。
この御影堂の再建の工事が始まるのは寛永十年(一六三三)六月十一日のことです。西本願寺の住持は准如上人から良如上人に替わっていました。良如上人は寛永七年(一六三〇)、十九歳で西本願寺の住持となり、この時には二十二歳でした。准如上人も再建の希望をもっており、敷地の整備などを進めていましたが、再建の工程が具体化する前に亡くなってしまいました。
工事はまず用地に仮屋を建てることから始まります。この後、寛永十二年(一六三五)七月二十六日に立柱式、翌寛永十三年(一六三六)八月二日に上棟式が行なわれました。上棟式は盛大なもので、大勢の人びとが見物に来ました。そして、上棟式のすぐあとの八月十九日、阿弥陀堂に安置されていた親鸞聖人の御影がこの御影堂へと移されます。この時には御影堂は阿弥陀堂の南側に建てられます。以後、西本願寺の堂の配置は北に阿弥陀堂、南に御影堂が建つ形式になります。
御影が移されたのは十九日の早朝のことです。午前四時、御影が安置されていた阿弥陀堂で晨朝の勤行があり、その後に御影が移されました。朝が早いということで、まだ門も開けられてはいませんでした。御影は白い布団にくるまれ、乗り物に乗せて移されました。御影の乗り物は十二人の一家衆が持ちました。この十二人は良如上人により選ばれた人たちです。この十二人の筆頭となったのは興正寺の准秀上人の弟である萩の清光寺の准円師です。
御影堂の内陣は北側の壇には准如上人の御影が掛けられ、南側の壇には証如上人と顕如上人の御影が並んで掛けられていました。南の余間の壇には十字名号、北の余間の壇には九字名号が掛けられています。親鸞聖人の御影は中央の須弥壇の上の宮殿に安置されました。須弥壇は正面が一丈五尺七寸五分、奥行一丈三尺六寸、高さ五尺二寸三分で、宮殿は正面七尺二寸、奥行五尺で、中に一尺二寸の高さの台座が置かれていると記録されています(『西光寺古記』)。御影が安置されたあと、准円師を筆頭に十八人の一家衆が内陣に座り、御影を拝しました。
御影の遷座後、一同は、一旦、御影堂を退出します。こののち一同には斎が振る舞われました。良如上人をはじめ、百二十余人の一家衆、九十余人絹袈裟衆、二十余人の平の坊主衆が斎を食しました。一家衆の人数が多いため、茶碗の台が足りなくなり、下位の一家衆は台がないままで斎を食しました。
斎が済んでからは御影堂で日中の勤行が勤められます。この勤行では御堂衆の後に楽人が並び、楽を奏しました。勤行は無量寿経、観無量寿経、それに漢音の阿弥陀経が読まれ、阿弥陀経が読まれている時に行道がありました。三部経のあとには正信偈も勤められます。和讃が三首引かれましたが、この時には良如上人、興正寺の准秀上人、良如上人の弟の理光院昭円の三人が句頭を唱えました。勤行はこれで終わりです。
この寛永十三年に完成した御影堂が現在の西本願寺の御影堂です。完成といってもこの御影堂は不備な部分も多く、良如上人は以後も整備につとめましたし、これから百七十年ほどを経た文化五年(一八〇八)からは、二年の期間をかけ、建て替えにも近いような大がかりな修復がほどこされています。御影堂は当初からいまのような姿であったというわけではないのです。
この御影堂の規模はきわめて大きなものです。
東西二十四間半四寸五歩、内法二十間余、桁行南
北三十一間半四寸五歩、内法二十二間半・・・桁
行高至棟十五間・・・角柱百二十六本、丸柱四十一本、金柱六十本(『大谷本願寺通紀』)
御影堂の規模は奥行二十四間強、桁行三十一間強で、高さが十五間、角柱、丸柱、金色の柱が総数で二百二十七本使われているとあります。まさに巨大な堂です。この西本願寺の御影堂の建立後、真宗では競うように各派で巨大な堂が建てられていきます。東本願寺では、この後、万治元年(一六五八)に御影堂が再建されますが、その規模は桁行三十七間余、奥行二十七間半、高さ二十間三尺余にも及ぶものでした。
(熊野恒陽記)